競馬の文化村「もきち倶楽部」
メ−ルマガジンサンプル

 


酒と競馬の文化を発信するメール・マガジン      2000 年8月1日発行
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      もきち倶楽部              創刊号

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▼目 次▼

■ 発刊に際して                      山本一生
■ 『もきち倶楽部』創刊に乾杯!              石川喬司
■ 希望を抱ける雑誌に                   飯田正美
■ まずは発刊おめでとうございます             吉川彰彦
■ 祝、発刊!       競走馬<ベルグ>オフィシャルサイト管理人
■ 文明開化に馬券は舞う  第1回             立川健治
■ 馬の名前に文化を読む  創刊号特別寄稿         森本 健
■ 居酒屋亭主のつぶやき  第1回         も〜吉:安部俊彦
■ 競馬童話の白眉、『ブラックゴールド』          山本一生

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■ 発刊に際して                     山本一生
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「今までにかってないほど競馬が盛んになったのに、このような本が、わずか二
百冊ぐらいしか売れないとは、なんだか淋しい気がします。競馬が盛んになった
といっても、しょせんそれは馬券熱が高まったことであって、むしろ戦前のほう
が、競馬ファンのなかに、馬そのものに関心を持った人が多かったような気がし
ます」
       (佐藤正人著『わたしの競馬研究ノートの4』「あとがき」) 

 新橋にあった中央競馬会の広報センターまで出かけて行って、人気のない部屋
で、昔のレースを調べていたときのことだった。
 ハイセイコーがブームになったころだから、二十五年ぐらい前のことになる。

 ひととおり調べ終わり、書籍を棚に戻していると、その本が視野に入り、自然
に手が伸びる。パラパラとめくって、いつものように「あとがき」を開くと、そ
の言葉が飛び込んできた。

 なぜか、ふっと、目頭が熱くなった。何に対してかわからないものの、徒手空
拳ながらも孤軍奮闘している姿が、その「あとがき」からうかがえたからである。

あわてて表紙を見ると、佐藤正人著『わたしの競馬研究ノートの4』とあった。
お世辞にも立派とはいいがたい装幀から、競馬書というよりも同人誌の特集号の
ような雰囲気が漂っている。ただし、収められている内容は濃密だった。

 血統に関する外国文献の翻訳や世界各国の競馬の解説、競馬史の研究論文、わ
が国の競馬の文化についての批評など、当時としてはなかなか知り得ない事柄が、
そこには並んでいた。知り得ないというよりも、まったく異なる次元の競馬が広
がっていた。佐藤正人という名の、競馬の世界だった。いつのまにか私は、その
シリーズを読みふけっていた。

たぶん競馬というものが、とうてい目には見えない、暗闇のなかに漂う不可思
議な世界だと思うようになったのは、そのときからかもしれない。そしてその闇
の中で、佐藤正人の数多くの著作は、まさに夜空に浮かぶ巨大な飛行船を照らし
出すサーチライトのように飛び交い、様々な角度から「競馬の世界」を浮かび上
がらせる。競馬というものが、動物と人間が長らくかかわってきたがゆえに、あ
るときは歴史であり、あるときは文学であり、あるときは科学であり、いうなれ
ば世界そのものであることを、彼の著作から知るようになる。

 神楽坂愛馬の會を足場として、メール・マガジン「もきち倶楽部」を発刊しよ
うと考えたとき、なぜか二十五年前の光景がよみがえってきた。
 おそらく、メール・マガジンのコンセプトとして、「文化としての競馬」を標
榜したからだろう。いやしくも我が国において、競馬の文化を口にするときには、
だれもが最初に、佐藤正人に触れざるを得ない。
 だが、それだけではないような気がしてならない。きっと、いまでも引き出し
の奥には、二百冊しか売れないという「あとがき」を目にしたとき、熱くなった
目頭の感触が、変わることなく残っているからかもしれない。

「文化としての競馬」であるからと言って、とりわけ難しい話をしようという
のではない。日本競馬の繁栄とか、競馬文化の発展とか、そういうことを意図し
ているわけでもない。
 ただ、見ることのできない競馬の世界に、サーチライトを一本あてて、そこか
ら興味深い物語を読みとりたいだけでしかない。
 言い方をかえれば、人間と自然との関係、あるいは人間と人間との関係を通じ
てではなく、人間と馬との関係を通じて、少し世界を語ってみたいのである。も
ちろんこの場合、「世界を語る」は、「人間を語る」と置き換えてもいい。

 あれから二十五年は経っている。インターネットという新しい伝達手段も開発
されている。当時は二百冊だったかもしれないが、いまでは競馬の世界について、
もう少し多くの人たちと語り合えるのではないかと思っている。

 「もきち倶楽部」は、二〇〇〇年の八月一日に発刊されます。

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■ 『もきち倶楽部』創刊に乾杯!             石川喬司
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 POG万歳!
『もきち倶楽部』創刊に乾杯!

 競馬は奥の深い遊びです。(1)一攪千金のギャンブルの夢。(2)長い歴史
の謎を秘めた血統のロマン。(3)手に汗握るスポーツとしての迫力。(4)馬
と人の織りなす筋書きのない無限に続くドラマ・・。
 POGは、そういう奥深い遊びの世界から生まれてきた素晴らしい発明だと思
います。ぼくの新聞連載小説『走れホース紳士』(1974年刊)は、世界最初
のPOG小説だと自負しています。

 遊びの文化について語り続けた早逝の友・武市好古(寺山修司のあのJRAの
CMを演出した男です)の好著『競馬を読めば』の中にこういう一節があります。

「エンタテインメントには見て楽しみ、読んで楽しむという二重の楽しみがある
のだ。別のことばでいえば、見るのは事実で、読むのは真実である。だから練達
の文章で書かれたものを読むことによって、自分が見た以上のものを知り、また
見たつもりで見ていなかったことを悟るのだ」

「批評家がしっかりしなければ、エンタテインメントは絶対によくならない」

「実作者とファンと批評家が正常な力関係で形づくる正三角形こそ、この世界の
進歩のコアである」

 理想の三角形を目指して走り出した『もきち倶楽部』に拍手、
 そしてもう一度乾杯!

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■ 希望を抱ける雑誌に                   飯田正美
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 昔は、一に福島、二に函館というのが、競馬場のランク付けだった。当方が日
刊競馬に入社して24年経つ。その間、関東圏の競馬場すべてに出張したが、そ
れが競馬一夜の、お店通いの好感度の総合評価であった。

 しかし数年前から、福島がいちばん行きたくない競馬場になった。なじみのお
店が、次々に店じまいしたこともあるが、最大の理由は競馬場に施設にあると
言ったほうがいいだろう。

 周知のように福島競馬場は、1997年に新スタンドが出来上がったが、それ
が最悪なのだ。新スタンドの評価といえば、中山が良くなかったが、福島はそれ
にさらに輪をかけてひどい。

 記者席に上がるには、従業員用のエレベーター利用か、一般指定席から馬主席
を通って上がる二通りあるが、どちらもスンナリと・・とはいかない。とくに一
般指定席のほうから上がっていくと、行って戻って、螺旋階段を上がってと、複
雑難解このうえない。初めて記者席に上がる新米記者など、迷いに迷い、記者席
にやっとたどりついたころには、皆泣き顔になっている。

 しかも、パドックは必ず見ることにしているが、福島ではそれも難しい。 ネ
クタイ着用(最近はそううるさくない)の馬主席を通り、グルグルと螺旋階段を
下り、さらにエスカレーターを4階、3階と降りて、やっと馬がまともに見られ
る。それより上だと、馬の背中しか見えない。しかし、そんなに時間をかけては、
小倉競馬も函館競馬も観戦できず、福島に限ってパドックは、テレビ観戦にして
いる。

 もちろん競馬記者など、二の次、三の次でも構わないが、馬にとって、あるい
はファンにとって、良い工夫などどこを探しても見つからない。問題なのは施設
面の不備ではなく、それが競馬全体に対する方向性のズレを象徴してはいないだ
ろうか。

 去年の夏は、新装なった小倉競馬場に行った。また、ろくでもない造りなのだ
ろうと思っていると、これが意外や意外。中山も福島も、新スタンドはみな外界
から遮断する方向だったが、小倉は外へ外へという意識が見てとれた。5階か6
階のテラスからは、パドックが良く見えたし、最上階の屋上には、席なしのテラ
ス風レース観戦スペースがあった。「あんがい捨てもんじゃないな」という感想
だった。

 さて、メール・マガジン『もきち倶楽部』が創刊されるという。
 パソコン音痴の当方には、どうもピンとこないが、あの山本一生が、編集長と
して腕を振るうということであれば、これは楽しみと言わざるを得ない。山本一
生の翻訳やエッセイはもちろんだが、そのほかにも協力陣には、作家の石川喬司
氏、牝系研究家の伊与田翔、海外競馬通の新燕盛遠など、強力なメンバーが控え
ているからである。足手まといながらも、当方も助力は惜しまないつもりでい
る。この決意表明をもって、『もきち倶楽部』の創刊のお祝いの言葉としたい。

 世の競馬雑誌はと見ると、ここ数年でバタバタと討ち死にし、残った数誌も、
電話会員募集の広告が、総ページ数の半分を占めるようなものばかりとなってし
まっている。『もきち倶楽部』にはぜひ、新装なった小倉競馬場で当方が少しは
希望を取り戻したように、メールを受信した人たちが、「競馬雑誌もあんがい捨
てたもんじゃないな」と、希望を抱ける雑誌になってほしいものである。

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♪♪ 新刊案内
  飯田正美著『本誌予想・二重丸の真実』日本短波放送  1300 円    
    予想は難しい。だけど競馬は簡単だ!
 「日刊競馬」で 14 年間本紙予想の重責を背負い続けている筆者が明か
す、超実戦的勝馬検討理論

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■ まずは発刊おめでとうございます             吉川彰彦
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 こんにちわ。「日刊競馬・地方版」で予想をつけているヨシカワです。「もき
ち倶楽部」のPОCでも、もう10年来お世話になっています。長らくやってい
るわりに誇れる戦績はありません。1年終わるとだいたい下のほうです。6月の
ドラフトでお邪魔した際は、たいていうつむきかげんでお金を払っています。

 私の仕事は、ほぼ365日、南関東4競馬場に出かけレースを見ることです。
 うらやましくはありません。予想はあまり当たらないし、馬券はそれに輪をか
けてひどいものです。競馬場の出口などで、帰りによく使用済みの「日刊競馬」
が放り捨てられています。踏みつけた靴の跡が鮮やかすぎると悲しいです。私の
顔写真部分がタバコの火で焼かれていることもあります。とんでもなく罪深い仕
事なのかもしれません。

 いやいや今日はこんなことを書くのではなかった。「もきち倶楽部・メールマ
ガジン」の発刊を祝う一文です。
 山本一生さんは私の敬愛する作家・文化人 ( 変な表現ですみません ) の一人
で、その作品はだいたいいつもワクワク感を持って読ませていただいています。
周囲にもファンが多く、話をしていて「へえ。山本一生さん知り合いなんだ…」
などとヨシカワの株も上がったりします。最近では「書斎の競馬・13号」に載
った「洋一郎の傘」がよかったです。昨日読み返しました。どこまでが私小説な
のかわからないし、またそんなことどうでもいいのかもしれませんが、とにかく
一生さんの顔を思い浮かべながら読み進んでいたら、よりいっそう不思議な感慨
を覚えてしまいました。透明感のある文章、文体というのでしょうか。素晴らし
いです。

 先日お電話した際、メールマガジンは週3回発刊と聞きそれは凄いやと思いま
した。競馬マスコミが軒並み不況で自ら書く場所を確保したい、そんなニュアン
スでおっしゃいましたが、いずれにしても配信をいただける我々は幸せです。
「ブラックゴールドの悲しみの生涯」とは、タイトルからして一生さんらしいで
す。ヨシカワは、昨暮れ必要に迫られてようやく仲間入りした「パソコン1年生」
ですが、こういうことがあると頑張ってよかった ( 実は設定やらなにやら全部
会社の後輩にオンブにダッコ ) と思います。

「地方競馬」に関してお役に立てれば、また何か書かせていただこうと思います。
まずは発刊おめでとうございます。PОCも今年は熱が入りそうです。

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♪♪ ホームページ案内
  吉川彰彦の重賞レース回顧
   日刊競馬・地方競馬版メイン解説者吉川彰彦の、重賞レースの回顧と
レースの詳細を掲示しています。    
http://www1.sphere.ne.jp/nikkeiba/koei/kaiko/kaiko.htm

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■ 祝、発刊!       競走馬<ベルグ>オフィシャルサイト 管理人
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「もきち倶楽部」発刊おめでとうございます。

 競馬の一時的な熱狂が過ぎ去りし今、競馬の持つストーリー性、ドラマ的な一
面をアピールできる方々による今後の競馬界の発展への寄与の度合いは決して少
なくなく、その意味で、競馬文化を語ることのできる「もきち倶楽部」には期待
しております。
 末筆ながら皆様のご活躍をお祈り申し上げます。

          競走馬<ベルグ>オフィシャルサイト 管理人     
           http://www2u.biglobe.ne.jp/~BERG/

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■ 文明開化に馬券は舞う    第1回            立川健治
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   「競馬(ウマカケ)の場所忽ち馬賭(ウマカケ)の場所に変じたるが如し」
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  はじめに・・・「馬券」をめぐる光景
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 幕末から鹿鳴館時代(明治 10 年代から 20 年代前半)の新聞などを眺めてい
ると、「馬券」の予想記事、その当たり外れの自慢話、あるいは「不正・八百長
話」など、その熱狂ぶりはなかなかのもので、「おいおい、こんな手があるのか、
うまい話しだな」といったものまでもある。

 これらのほとんどは、横浜の居留民による開催をめぐってのものであるが、も
ちろん日本人の手になる開催での「馬券」をめぐる記事も残されている。
 この時期の日本人の手になる開催では、「馬券」は発売されていなかったとい
うことになっているが、それは、主催者が発売していなかったに過ぎない。かつ
ての私たちも、当然、当初から「馬券」に打ち興じていた。
 居留地で治外法権だった横浜のニッポン・レース・クラブでは、明治 21(1889)
年秋の開催から、現在のシステムと同じように、主催者が馬券を発売、一定率を
控除し、投票数に応じて配当が決まるという、パリミチュエル方式での単勝馬券
が発売され、クラブに安定した収入をもたらすようにもなっていた。
 要するに、この時期の「馬券」をめぐる光景も面白いのである。

 だが、幕末から鹿鳴館時代の新聞などの資料を、手軽に見ることができないこ
ともあって、今まで、この時期の「馬券」をめぐる光景はあまり知られることも
なかったし、またその解明も進んでいるとは言い難い。
 そこで、そういった作業に資することにもなるのではないかと思い、この時期
の「馬券」関係の資料を、今後数回にわたって、新聞記事を中心として紹介して
いくことにしたい。

 また、現在の私たちと競馬との関係のほとんどが、「馬券」が契機になってい
るとするなら、日本において競馬が誕生した時期の「馬券」をめぐる光景を振り
返って見るのも、一興になるかとも思う。

 第一回目の紹介は、この時期の競馬が最後の段階を迎えたころのものである。

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 「馬かけ」      『読売新聞』:明治 25(1892)年 5 月9 日
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 上野不忍の競馬ハ(註1)、去る七八の両日に行はれぬ。此催しハ、元と良馬
の養成を励ます趣意より出で、始めハ宮内省陸軍省など力瘤を入られ(註2)、
ガラと唱ふる一種の賭博も、此場所限り黙許の姿にて、頻りに其賑いを助け給へ
ど、鎌倉、岩川等名の日本馬斃れてよりハ(註3)、数少き雑種馬の勢い強くて、
入場の馬匹追々に減じ、時たま函館産の英(ハナブサ)とて未曽有の駿馬出でた
る事もあれど、之と競う馬なくて空しく種馬に落されし始末なれバ(註4)、自
づとさびれて両省も手を引かれ(註5)、今年の如きハ、一番十頭以上の組合ハ
なく、随て競馬催し趣旨に叶へる来賓も絶え絶えになれり(註6)。

 されバ其賑はす賭事の素情も追々下りて、今ハ純粋の賭博に変じ、横浜の或る
外国人の馬見所の此方に一日五円の地料を払いて仮に葭小屋を設け、十二の馬画
(エガ)ける車の、俗にドツコイドツコイと云へるに似たるを備えて、洋妾(ラ
シャメン)に堂取らすあり。又在来のガラ師は彼処此処(カシコココ)をかけ廻
りて、賭博の連中を集むるなど不体裁狼藉極る有様と云うべく、其賭博に拘はる
人々を目察すれバ、馭者馬丁あるハ旦那待ちの車夫、横浜上りの商人など多く、
特別券もて馬見所の貴賓席に列なる嬋妍(アデヤカ)の美人連また同伴の下男に
嘱(イイツ)けて賭札買はすもあるハ、馬骨に錦着せたる狼ものと思われて可惜
(アタラ)色を消しぬ。 馬見所の状、大凡(オオヨソ)斯くの如くにて此の境
に入るもの半バ馬を見、半バ賭場に集りて、馬の品評ハ馬耳の東風ほども耳にか
けねバ、警察官も稍や之を悟りしものと見え、日本人の企てる賭博ハ、時により
て解散すべしなど言はれたるよしにて、ガラ師ハ案外閉口の様子に見え、競馬
(ウマカケ)の場所忽ち馬賭(ウマカケ)の場所と変じたるが如し。

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註(1)
 共同競馬会社(明治 12 年設立)は、明治 17 年に、総工費 11 万 7000 円余
をかけて上野不忍池周囲を改修し、競馬場を設置した。明治 17 年 11 月から春
秋二回開催を続けていたが、この明治 25 年の秋の開催が最後となり、競馬場施
設は明治 28 年 3 月撤去された。
 共同競馬会社は明治 12 年設立、明治 17 年当時は、社長・小松宮、役員には
伊藤博文、松方正義、岩崎弥之助、三井八郎右衛門などの皇族、政財界の中心人
物が名を連ね、会員数が内外 600 名を超える最大の社交倶楽部でもあった。 
 不忍池以前の競馬場は、戸山(現・新宿区西大久保)にあった。
 東京周辺の競馬場はその他、ニッポン・レース・クラブの根岸競馬場(現・横
浜市中区)、興農競馬会社の三田競馬場(現・港区芝)があった。
 なお当時はクラブを会社と訳していた。

註(2)
 農商務省を加えての三省が、鹿鳴館時代の競馬を支えていた。その他には、内
務省や外務省も協力していた。

註(3)
 鎌倉は、南部産、明治 14 年春の根岸競馬場でデビュー。戸山、三田競馬場の
三場で、明治 16 年春のシーズンまで活躍。生涯戦績 48 戦 32 勝、獲得賞金 2
万円(推定)で、日本馬のチャンピオンだった。明治 16 年 7 月急死。馬主は、
千葉県の裕福な酒造業者の藤崎忠貞。
 岩川は、鹿児島産、明治 14 年秋にデビュー。鎌倉亡き後の日本馬のチャンピ
オンとして、明治 20 年秋のシーズンまで活躍。特に明治 17 〜 18 年は圧倒的
な強さを示した。鹿児島産としては、鹿鳴館時代の唯一の活躍馬だった。名義は、
内務省勧農局の波多野尹政や岩手厚雄、ついで旧近江・大溝藩主で、当時の最大
の馬主であった子爵分部光謙(明治 20 年 7 月、華族会館から謹慎処分を受け
て競馬界から去った)など。

註(4)
 英は、日高の著名な馬産家であった大塚助吉が、新冠御料牧場から受胎のまま
払下げを受け、大塚の牧場で生まれた。明治 18 年秋の函館でデビュー。翌明治
19 年春のシーズンから、不忍池、根岸競馬場に転じ、岩川を問題にしないなど、
圧倒的な強さを示し、明治 20 年春までに不忍池・根岸で 14 戦 10 勝の戦績だ
った。後々に至るまで、人々の間に強烈な印象を残した馬となる。
 日本馬と称していたが、馬体やその強さからみて、雑種馬(トロッター)との
疑いが強く、明治 20 年秋のシーズンからは、不忍池・根岸で出走を拒否され、
引退を余儀なくされた。
 明治 21 年 5 月種牡馬として新冠御料牧場に送られ、その後、大塚の牧場に
移って、そこで死んだ。名義は、函館時は本田親秀、不忍池転戦時は佐野延勝
(軍馬局長などを歴任、男爵)。

註(5)
 ここで宮内省とあるのは誤り。宮内省は共同競馬会社の中核を担い、最後の開
催まで積極的に開催を支えていた。陸軍省が手を引いたのは明治 23 年からだっ
たが、その時に共同歩調をとったのは農商務省だった。

註(6)
 陸軍省、農商務省が撤退したことに加えて、共同競馬会社は明治 20 年代に入
り、レース編成を雑種馬重点に変更していたことで、出走馬が減少していた。
 雑種馬は、絶対数が限られていた上に、競走馬に適する頭数は極めて限られて
いた。
 この明治 25 年春の開催は、勝負付けの済んだ少頭数のレースがほとんどで、
賭けも低調であった。
 ただし、「来賓」として皇太子、皇女などは来場していた。

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 解 説
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 この「馬かけ」は、終わりを迎えようとしていた鹿鳴館時代の競馬について、
いくつかの重要な証言を記録した新聞記事である。
 とりわけ、「馬券」発売が黙許されていたこと、「馬券」で活況を与えて競馬
の振興をはかり、馬匹改良に結びつけるというその理由付けまでが書き込まれて
いることで、さらに貴重なものとなっている。
 ちなみに、この理由付けは、馬券黙許時代を含めて、戦前までの馬券発売のも
のとなる。そして、この「馬かけ」は「馬券」をめぐる言説の転換点を示す資料
でもある。

 この時期は、賭博に関しても、いってみれば鹿鳴館時代を迎えていて、「下層
・博徒」の賭博は厳禁されていたが、「上流」のものは、欧米に倣うべく社交の
一環として奨励されていた。競馬はその代表的なものであり、不忍池競馬では、
スタンドの「上流社会」の人物も、構外の群集も、賭けに熱狂していたが、その
ことが、ことさらに問題されることもなかった。江戸期のいわば文化としての賭
博の余韻も残り、また後のように、賭博はまだ個人の「内面」、あるいは社会の
病理の問題でもなかったからである。

 ところが、この「馬かけ」をみると、そういった風景が変わりつつあったこと
がうかがえる。競馬場が、かつての社交、馬匹改良の場から、その「素情」が
「下」って、純粋の賭場のような雰囲気を漂わせるようになり、競馬(ウマカケ)
が馬賭(ウマカケ)の場所に変じてしまった、といった形で、競馬場における賭
けに対しても、それを問題化しようとする視線がとどきはじめていた。
 こういったものは、それまでにはない新しい言説であった。

 簡単にいえば、明治 20 年代に入り、鹿鳴館時代の「欧化主義」への政治的、
思想的、あるいは心情的な反発が、社会的にも威力を発揮し、「欧化主義」を追
いつめていき、その中に「上流の賭博」も巻き込んで、競馬場の「悪所性」も摘
発しはじめようとしていたを示すものだった。

 ただ、そのことを差し引いて読めば、この「馬かけ」は、逆に、当時の「馬券」
に打ち興じる人々の姿が描きこまれている資料ということにもなる。

 当時の「馬券」は、この「馬かけ」に描かれているように、ガラが中心であり、
馬札と呼ぶのが一般的であった。
 ちなみに「ガラ」とは、宝くじと単勝、あるいは複勝(二着まで)馬券が組み
合わされたようなものだった。英語名はロッタリー Lottery 、抽籤器がガラガ
ラと音をたてるので、通称ガラと呼ばれた。

 時期によって売り方が異なるが、この時代は、一レースに一セットで、ある枚
数(たとえば一円で一〇〇枚)を発売、出走馬が確定すると、出走馬の登録(馬)
番号に照応する札が決定され、その他の番号は無効、レース後、手数料(通常一
割)を控除して、勝馬だけの場合は全部、二着馬までの場合は、一着六割、二着
三割と配当するものだった。

 自分で予想した馬券を買うのではなく、持札の番号が出走馬に照応するかどう
か、つぎにその馬が勝つかどうか、という偶然にたよるものであった。レース当
日に発売されるだけでなく、前日までに発売され、つまり出走登録の段階で番号
が照応され、その札がオークションに掛けられるものもあった。

 横浜の居留地では、不忍池の共同競馬会社の開催を対象にしたガラも発売され
ていたが、そこではこの方法が採られていた。説明は、後の機会にゆずるが、こ
の方式だと、有力馬の馬主などによる「不正」が入り込む余地が大きかった。

 不忍池競馬では、ガラの他に、ブックメーカー式や個人同志での賭けも行われ
ていたが、それらついては次回以降に順次紹介していく。

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  ハワード・スーンズ著 中川五郎訳
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■ 馬の名前に文化を読む        創刊号特別寄稿 森本 健
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 はじめに
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 「もきち倶楽部」メール・マガジンの創刊おめでとうございます。
 栄えある創刊号の末席を汚し、さらに今週から始まるレベルの高いメール・マ
ガジンの水曜日に、数ある有能なライターの皆様方を差し置いて、無謀にも連載
を敢行いたします森本健と申します。今後ともどうかよろしくお願いいたします。

 私の場合、競馬から連想ゲームのように話が脱線して行くのを得意としており
まして、ここでは主に馬名の話を中心に進めていきたいと思いますが、必ずしも
それだけに拘ることなく、色々な話、特に現在米国東海岸に居住しておりますの
で、アメリカの東海岸の競馬を中心にしたお話も展開していければと思っており
ます。

 また、私自身クイズやパズルが好きなもので、毎回最後に問題を出して終わ
り、次回には解答とその簡単な解説から入るという形式にします。そちらも合わ
せてお楽しみください。
 なお、私はこうした「です」「ます」調のどちらかと言えば口語体に近い書き
方を良くしているのですが、それではどうも読み難かったり、文章が冗長になる
傾向にありますので、この下の本文以下次回以降「である」調で書いて見たいと
思います。それでは。

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 各国ダービーの始まり
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 さて、最初はどこから始めようかと考えたが、やはり競馬の象徴はダービーだ
ろうということで、今回は創刊特別号でもあり、総括的に各国の第1回ダービー
を眺めておこうと思う。

 各国でダービー、ないしはそれに相当する競走の第1回が施行された順に、年
度と勝ち馬の名前を以下に書き出してみた。

[18世紀]
イギリス:Derby Stakes             1780 Diomed

[19世紀]
フランス:Prix du Jockey-Club           1836 Franck
カ ナ ダ:Queen's Plate             1860 Don Juan
オーストラリア:Australian Jockey Club Derby   1861 Kyogle
アイルランド:Irish Derby Stakes        1866 Selim
ド イ ツ:Deutches Derby            1869 Investment
アメリカ:Kentucky Derby             1875 Aristides
アルゼンチン: Gran Premio Nacional       1884 Souvenir
イタリア:Derby Italiano            1900 Cloridano

[20世紀]
ユーゴスラビア:Yugoslav Derby         1921 Mara Resavkinja
日 本:東京優駿                 1932 ワカタカ

 イギリスで始まったのが1780年で、次にフランスで似たようなレースが始
まるのに50年以上掛かっている。当時は競馬は古馬のもので、やはり若駒のこ
うしたレースが定着するのに時間を要したということだろう。

 それでも次の50年の間に、ほぼ主な国では始まっている。最初はもちろんイ
ギリスの影響の強いカナダ・オーストラリアといったところからだが、次第にそ
れ以外のドイツや南北の新大陸の新興国へも広まって行く。
 そしてその次の50年の間に、さらにそれ以外の国でも競馬自体が受け入れら
れるのと共に、ダービーという象徴的なレースを頂点としたレースの体系が整え
られて行き、日本では1932年に目黒競馬場で始まった。

 日本ではそれ以前にも、各競馬場はそれぞれに試みており、例えば横浜競馬場
では横浜ダービーやジャパンセントレジャーもやっていたようだが、豪州からの
輸入馬が圧倒的に強かったそうだ。
 また1902年には、日本産馬による日本ダービーの設立という試みもあっ
た。その時は横浜競馬場で5ハロンのレースが行なわれ、「ツキカゼ」という馬
が勝ったが、結局は時期早尚ということで、翌年以降は行なわれなかった。途中
1908年に馬券禁止などもあったため、本格的に東京優駿として行われるよう
になるのは、諸々の条件が整う30年後の1932年であった。

 それで馬名の話だが、次回以降歴代イギリスダービー馬の名前について、それ
以降ももし続けるなら、アメリカ・日本と順番にやって行きたいので、今回はそ
れ以外の国の第1回ダービー馬の名前を見ることにする。

フランス: Franck ( c 父 Rainbow 母 Verona )

 人の名前は特定が難しいが Sebastian Franck(1499−1542)という
有名な人物がいる。ドイツでローマンカトリックの修道士だったのだが、ルター
の宗教改革の影響を受けてリベラルな活動と執筆をした人で、Rainbow (レイン
ボー、虹)が夢と希望を象徴しているということからの連想ではないかと思う。
母親 Verona はイタリアの地名で、ロミオとジュリエットの舞台ともなった。

カナダ: Don Juan ( g 父 Sir Tatton Sykes 母 Yellow Rose )

 有名なスペインの貴族で漁色家、ドン・ファン。母親にある Yellow (イエ
ロー、黄色)が嫉妬深さを象徴する色だからだろうか。

 父親 Sir Tatton Sykes はイギリスの貴族の名前で、本人が自分の名前を馬に
つけて1846年のセントレジャーを勝った。漁色家かどうかは分からないが、
91歳まで生きた長命で、ライスやタピオカの入ったプディングが好物。 Sykes
家の屋敷には有名なライブラリーがあり、ニューヨークのメトロポリタン美術館
に本を大量に寄贈、グーテンベルグの最初の印刷もあるとかで、何となく
Franck との因縁を感じる。

 なお、歌にもなった Yellow Rose of Texas(テキサスの黄色いバラ)の話の
Emily Morgan という黒人女性は1800年頃の人らしいので、この母親はそれ
に因んで付けられた可能性もある。

オーストラリア: Kyogle ( c 父 William Tell 母 Cassandra )

 オーストラリアの地名で、大きなリュックをしょって歩き回る、いわゆる
Backpacker (バックパッカー)のための施設のあることで知られている。
 オーストラリアの Backpacker というと、有名な Waltzing Matilda (ヲル
ツィング・マティルダ)の歌――オーストラリアの非公式の国歌( unofficial
nationalanthem )=国民歌――が思い出されるが、この歌はメロディーは古く
からあるが、最初に公式の場で歌われたのが1895年なのでこの馬よりも新し
い。

 父親 William Tell (ウイリアム・テル、スイス建国の英雄)と息子の名前を
結び付けるのはちょっと無理か。母親 Cassandra はギリシャ神話に登場するト
ロイの予言者で、悪いことを予言する人の意味に使われる。

アイルランド: Selim ( c 父 Ivan 母 Light of the Harem )

 オスマン帝国のサルタンの名前。
 父親 Ivan はロシア皇帝などに出てくる名前だし、母親の Harem (ハーレ
ム)からも連想したのだろう。因みに Selim には、1世(1467−1520)
から3世(1761−1808)までおり、3世が生きていたのはアイルランド
ダービーの行われた1866年とはそう遠い時代の話でもない。

ドイツ: Investment ( c 父 King of Diamonds 母 Golden Pippin )

 投資。ダイヤモンドの王様(父)も、黄金のリンゴ(母)も、投資対象として
最適。
 Pippin には美人という意味もあり、またフランク王国のカロリング朝を開い
たのも有名な Pippin (ピピン)だが、ここでは牝馬なので美人の方だろう。

アルゼンチン: Souvenir ( ? 父 Blair Adam 母 Remembrance )

 お土産物。お土産というと日本人は、つい人に上げることばかりを連想する
が、本来は自分が旅で訪れた先の思い出の小物のことで、母親 Remembrance(思
い出・追憶)からついた。
 父親の Blair Adam は、J. G. Lockhart の書いた小説「 Adam Blair a Story
of Scottish Life (1822)」の主人公の名前。一度没落した貴族が、再度上
り詰めてスコットランドの首相になったという話らしい。

イタリア: Cloridano ( c 父 The Condor 母 Bambola )

 イタリアの詩人 Ludovico Ariosto の書いた Orlando furioso (1516)に
登場する人物。卑しい身分のムーア人の若者で、敵の隊列にムチャクチャに突っ
込んで戦死する。
 父親 The Condor (コンドル)や母親 Bambola (イタリア語で人形、 doll
または puppet のこと)からの連想があるのかどうか。

ユーゴスラビア: Mara Resavkinja ( f 父 Holbein 母 Mehadia )

 これは人名であることは間違いなく、セルビアだか何処かの銅像の写真まで
WEB http://svilajnac.homestead.com/album.html) で見つけたが、字が読めな
いので分からない、どなたかご存知でしたらお教え下さい。
 父親 Holbein は、ドイツの画家 Hans Holbein( the Elder として知られる
人物; 1465? −1524)だろう。母親は、現在はルーマニアにある地名
で、ローマの時代から要所だったらしく、古代史の地理などに登場するし、温泉
もあるらしい。この母と関係あるのか?

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 今回の問題
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 それでは次回へ繋ぐ問題、第1回イギリスダービー優勝馬 Diomed とは、どう
いった関係の名前だろうか?

A)植物の名前
B)ギリシャ神話の関係
C)それ以外

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参考文献・資料・検索サイト・辞書
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http://www.tbheritage.com
http://www.britannica.com
http://www.infoplease.com
http://www.bibliomania.com
http://www.altavista.com

「世界の蹄音(2)1902年」(週刊競馬ブック1999年1月17日号掲載)
「日本の名馬・名勝負物語」(中央競馬ピーアール・センター編, 中央競馬ピー
アール・センター1980)
「広辞苑/研究社新英和・新和英中辞典」( IC Dictionary TR-9700 Seiko
Instruments 1998)
「Webster’s New World Dictionary of the American Language/Second
College Edition」( David B. Guralink, Editor in Chief、The World
Publishing Company New York and Cleveland 1970)
「新仏和中辞典」(井上源次郎・田島清共編 岡田弘・中原俊夫改訂、白水社 1
971)
「三省堂独和新辞典」(三省堂編集所編、1963)
「The Bantam New College Italian & English Dictionary」( Robert C.
Melzi,Ph.D. Widener College, Philadelphia、A Bantam Book 1976)
「The New College Latin & English Dictionary Revised and Enlarged」
JohnC. Traupman, Ph.D. St. Joseph’s University, Philadelphia、A Bantam
Book 1966 1995)
「Larousse Concise Dictionary Spanish-English/English-Spanish」
LarousseKingfisher Chambers Inc. New York 1999)

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■ 居酒屋亭主のつぶやき  第1回         も〜吉:安部俊彦
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 我国の首相は、サミットの最重要議題としながらもIT,IC,ETの違いが
解らないらしい、チョット、ウフフ、、、でも この国大丈夫? 
 三日間で 800 億円も使って、大接待したあげく、笑われ、さげすまされて、
もう情けなくて見ちゃおれん。

 中央競馬会にもいいたい!
 こちとら、税金、つまりは人助けになると思って、せっせとハズレ馬券を買っ
てやってんだ。人の気も知らないで無用の長物ばかり造りやがって。
 せっかくお馬さんの御機嫌をうかがおうと、会いに出かけても、競馬場なのか、
ウインズなのか、さっぱりわからない、やたらモニターばかりで、パドックにた
どりついたと思ったら迷子になって、ゴールをかけぬける姿を一度も見ずに帰っ
てくるはめになる。

 こうなったら全国のコンビニに、モニター、自動発券機、自動払戻機を設置し
てくれってんだ。それが出来ないならせめても、宝塚記念と有馬記念の日は、フ
ァン感謝デーと銘打って、ハズレ馬券のナンバーで宝くじ抽選会ぐらいやってく
れってぇの。

 ここまで打つのに1時間かかりました。
 山本編集長に準備号を重ねて頂いている間、私は、「あたしのジョー」の丹下
段平に罵倒され、一緒に始めた店の従業員には嘲笑されながらも、パソコンの特
訓をしていたつもりですが、全然です。空中では十指が見事に動くのですが、キ
ーを打つのは何故か右人差し指一本、トホホ・・・・。

 厳しい編集長のもと、邪魔にならぬよう、つぶやいて行こうと思っています。

    私に光を!苦界の淵より

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■ 競馬童話の白眉、『ブラックゴールド』          山本一生
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 競馬童話を翻訳出版したいと思い、この数年いろいろと画策してきた。

 画策するといったところで、たいしたことをするわけではない。編集者と酒を
飲んでいるときに、頃合いをみはらかって、競馬童話に面白いのがあるが、出版
する気はないか、と訊ねるだけである。
 反応はいつも変わらない。最も関心を示すのは、競馬などやったことのない文
芸関係の編集者で、最も関心を示さないのが、童話など読んだことのない競馬関
係の編集者である。

 競馬を題材にした童話といえば、なによりもマーガライト・ヘンリーの『名馬
風の王』が名高い。サラブレッドの三大根幹種牡馬の一頭、ゴドルフィンアラビ
アンの数奇な生涯を描いた作品で、一九四九年にはアメリカの童話大賞ともいう
べきニューベリー賞を受賞している。わが国でも昨年の春に、NHK・FMで朗
読されており、少年少女小説の名作としての評価はいまでも揺るいではいない。

 もっとも『名馬風の王』は、童話の名作としては優れているかもしれないが、
競馬童話と呼ぶには少し無理がある。導入部にこそ、サーバートンとマンノウォ
ーの有名なマッチレースのシーンが出てくるが、それを除くと、勇敢な騎手が活
躍するわけでもないし、志の高い馬主が登場するわけでもないからである。

 競馬童話と呼べるもので、名作はないのかというと、そうでもない。
 たとえばウォルター・ファーレーの『ブラック・スタリオン』などは、競馬童
話の名作を指折るときには、まっさきにあげられる作品だろう。

 スペイン沖で船が難破して、黒い馬と少年が、無人島に流れ着いたことから物
語は始まる。馬と少年はいつしか友情が通い合うようになり、やがて救助されて
ニューヨークに戻ると、少年は、アメリカの最強馬と黒い馬とのマッチレースを
企てる。少年の願いは実現し、競馬場でのシーンでクライマックスを迎えること
になるが、これこそまさに競馬童話にふさわしい筋立てといえよう。
 ちなみに、フランシス・コッポラが制作した映画『少年と黒い馬』では、マッ
チレースのシーンは、カナダのウッドバイン競馬場で撮影されている。

『ブラック・スタリオン』は、一九四一年にアメリカで出版されるとベストセラ
ーになり、続編も二十一作まで書かれていて、ニューヨークタイムズ紙からは、
「物語に登場する馬では今世紀で最も有名だ」とまで評されている。

 最近の競馬童話では、キャスリン・コーヴェットの『フレディのケンタッキー・
ダービー』が面白い。
 フレディという馬の誕生からダービー制覇までを、馬の目と口を通して描いて
いるが、一読すればだれでも、その行間から、サラブレッドに対する愛情があふ
れていることに気づくだろう。

 それもそのはず、フレディの母ロマンティックミスは、コーヴェットが実際に
所有していた牝馬で、彼女が生んだ息子は、ほんとうにフレディと呼ばれていた
という。現実ではかなわなかったダービー制覇の夢を、せめて物語の中でかなえ
させてやりたいと思ったのかもしれない。

 しかし、競馬童話の白眉といえば、やはりマーガライト・ヘンリーの『ブラッ
クゴールド』に止めをさす、と私は考えている。
 一九五七年に書かれたこの作品は、一九二四年のケンタッキー・ダービー馬の
生涯を描いているが、その中には競馬物語のパターンが、ほとんどすべて網羅さ
れている。サラブレッドと人間が織りなす、愛と希望も、憎しみと絶望も、この
童話の中には書き込まれている。これほど素晴らしい童話が、翻訳されずに残っ
ていると言うことこそ、いかに競馬などやったことのない文芸関係の編集者が多
いかの証でもあるだろう。

『もきち倶楽部』の発刊にあたって、まずは私の大好きな、この競馬童話の傑
作を、「ブラックゴールドの悲しみの生涯」という表題のものとで、訳出してい
くことにしている。童話など読んだことのない競馬関係の編集者であっても、こ
の童話を目にしたならば、きっと面白いと思うに違いない。

 なおマーガライト・ヘンリーは、『名馬風の王』や『ブラックゴールド』だけ
でなく、『ホワイト・スタリオン』など、おもに馬を主人公とした物語を四十篇
近くも書きあげ、一九九七年の十一月に亡くなっている。享年九十五だったとい
う。

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【発行者】         安部俊彦
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【編集人】         山本一生
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【WEB】       www.bunkamura.ne.jp/mokichi-club
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【MAIL】      mokichi-club@bunkamura.ne.jp
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【制作】        (有)ケーズオフィス
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【WEB】       www.kz-office.co.jp
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