競馬の文化を発信するメール・マガジン       2001 年12月14日発行
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   競馬の文化村「もきち倶楽部」           No. 230
                          佐藤正人追悼号

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▼目 次▼
■ 競馬文化の先覚者
石川喬司
■ 佐藤正人氏によせて
立川健治
■ 佐藤正人『わたしの競馬研究ノート』より
   相馬久三郎氏を悼む
   あとがき
■ 活字の世界に戻った佐藤正人さん
飯田正美
■ あるホースマンの死
伊与田翔
■ お釈迦様の手のひらに乗った孫悟空
森本 健
■ 佐藤正人の著書訳書一覧
■ 佐藤さん、お元気で! 私、頑張りますから
山本一生
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■ 競馬文化の先覚者
                               石川喬司 
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 佐藤正人さんとは、JRA馬事文化賞の選考委員会などでたびたびご一緒させていただいたが、お目にかかるたびに教えられることが多かった。

 <競馬文化>という言葉は、今では口にするのも気恥ずかしさが先に立つほど商業化されてしまったが、佐藤さんの文章や発言には、そうした卑しい手垢で汚される以前の無垢な初心が香っていた。

 日本競馬史に永久に残るだろう『競馬研究ノート』シリーズのどのページを開いても、未踏の時代を先駆者として生き抜いた温厚な教養人の魅惑的な低音が聞こえてくる。ぼくらはそれに育てられた。

 佐藤さんが、日本の英語の辞書における馬の毛色の記述を全面的に改めさせたエピソードは有名で、ぼくらが各種辞典に「SF」や「有馬記念」の項目を新設させたりできたのは、その模倣にすぎない。

 偉大な先覚者の霊に心からの感謝を捧げる。


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■ 佐藤正人氏によせて
                               立川健治 
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 佐藤正人氏が逝去なさったと聞き、改めてその著作を読み返してみて、福沢諭吉の「晩年」のことが思い出された。

 明治20年代にもなると、青年たちの目から見ると、諭吉はすでに古臭い、時代遅れの「天保老人」にしか過ぎなくなっていた。そのイメージが独り歩きし、諭吉の著作は顧みられることもなく、その思想は忘れさられようとしていた。
 だが、諭吉の著作にふれてみると、今でも、その思想の豊かさが決して失われていないことにすぐに気付くことができる。いいかえれば、諭吉の著作は「古典」として存在している。
 たとえば『福翁自伝』を読むと、諭吉の生活思想のラディカルさに驚かされてしまうし、また『文明論之概略』や『時事小言』の国家・社会ヴィジョンは、現在でもその生命を保ち続けている。

 10数年前、日本近代競馬の歩みを調べてみようと思って、いろいろな資料にあたりはじめたとき、競馬に関する思想の奥行き、豊饒さを、素人の私にもすぐに感じさせたのが、佐藤正人氏の「わたしの競馬研究ノート」であった。そこから、競馬に関することを考えるときの基本的スタンスを、勝手に学ばせていただいた。
 その中で、私の日本近代競馬史研究の出発点となったのが、つぎの佐藤正人氏の言葉であった。
「競馬はスポーツかギャンブルか、これはよくいわれる言葉だが、私にいわせれば、これぐらい馬鹿げた疑問はない。競馬のうちの馬券をともなう部分は、ギャンブルに違いないし、騎手が馬に乗って走る部分、つまり競走そのものは、スポーツに決まっているのである。 近代競馬は、これを行うのに多額の金がいるから、馬券を切り離しては成立しない。だから、競馬はギャンブルをともなうスポーツ、というのが正しい解答である。」
(『趣味の競馬学 佐藤正人氏の研究ノートより』中央競馬ピーアール・センター編 1980年)

 今の私の立場では、第三者的に言わざるをえないが、佐藤正人氏の全ての著述が入手しやすい形で発行されることを切望したい。佐藤正人氏の仕事が、「古典」となるためには、まずそれが不可欠であるからである。しかも、それは、よく知られている佐藤正人氏自身のつぎの言葉を実行することに他ならない。

「これはわたしの持論なのだが、一国の競馬の質は、その国でいかに競馬に関する雑誌や単行本が出版されているかによって判断できる。競馬に関する立派な本(もちろん内容、外観とも)が出版されている国の競馬は、質の良い競馬を行っていると思ってまちがいない。」(同上)


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■ 佐藤正人『わたしの競馬研究ノート』より
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   相馬久三郎氏を悼む
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 ここまで書いてきたある朝、朝日新聞をみると福島種畜牧場長の相馬久三郎氏が自殺されたことが報ぜられていた。ここでこんな話をもちだすのは、なんだか妙におもわれるかもしれないが、そうではないのである。このエッチンゲンのサラブレッドの第一回で、これのほん訳の日本競馬会訳というのは、じっさいは相馬久三郎氏が訳したものらしいということを書いておいたのであるが、らしいでなくて実際に相馬氏が訳したものであることは、筆者がだれよりもよく知っているのである。

 わかくしてこの世を去った相馬久三郎氏につつしんで哀悼の意を表するとともに、このエッチンゲンのサラブレッドがいまはたき相馬氏によってほん訳されることになったときの話をして、故人をしのぶよすがともしたいと思うのである。

 あれはたしか昭和十七年の秋だったかとおもう。筆者がたまたまたにか用があって馬政局に行ったところ、当時馬産課におった故人が、競馬会にエッチンゲンのフォールブルートという本があったら借してほしい、競馬についてひじょうに参考になることが書いてあるのでほん訳してみたいという話があった。
 そこでわたしは、競馬会の書庫をさがしたところ、かつて三宅隆人氏のものだったらしい ( 表紙のうらに三宅という印がおしてある ) 本がみつかったので、さっそく相馬さんにお借ししたわけである。

 それから相馬さんは、さっそくほん訳に着手したらしく昭和十八年の五月ごろだったか、全部できあがつたといつて原稿を持つてこられた。序文のところにでてくるラテン語そのほかところどころブランクになっているところがあったが、こちらで調べるからということで、そのまま原稿をもらい、たしか六百円ほどほん訳料をさしあげたようにおぼえている。
 それから本にするときに、はじめは校正もみていただいていたが、間もなく十勝の種馬所長として栄転されたので、校正はそれからはわたしがみることにした。

 校正も全部すんで、いよいよ本になるときに訳者として一つ序文を書いてほしいことを手紙でおたのみしたところ、こんどのほん訳は自分としては、まとまったもののはじめてのほん訳であり、自分ながらかいしんのできではないから、自分の名前を出すことはえんりょしたいといってよこされた。
 そこで故人の名前は出さずに日本競馬会訳とし、訳序は筆者がかいたものですませたわけである。

 ほん訳が完成して間もなく、こんな大部のものを訳したのは、はじめてだから、お祝に一杯飲もうとさそわれて本郷で、二、三軒飲んでまわったのも、もうなんだか悲しい思い出となってしまった。


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■ 活字の世界に戻った佐藤正人さん
                               飯田正美 
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 佐藤正人さんとのお付き合いは、もう 30 年になるだろうか。私が初めてその名前を知ったのは、おそらく、サラブレッド血統センターが今も継続して出版している「競馬四季報」の広告のページだったように思う。

 当時の私は、大学に入って 3 年目でありながら、卒業するのにはさらに 4 年間が必要という状況だった。中退するつもりで退学願いは出したものの、母と、同棲していた今の妻とに説得され、再び授業に出て単位を取るという苦渋の決断をしたころだった。

 その当時から私はすでに競馬のとりことなっていた。だから、再び始めた学生生活の無限に近く存在する時間に、競馬、および馬に関するあらゆる書物を読みたいと思った。
 そんな当時の私に、サラブレッド血統センターの出版物の広告はとても煽情的で、まるで宝の山のようだった。

「日本の種牡馬録」、「サラブレッド血統体系」、「日本の名馬」、「世界の名馬」という本と並び、紹介してあった 2 冊の本のタイトルが特に私の目を引きつけた。
 フェデリコ・テシオ著「サラブレッドの研究」と、サー・チャールズ・レスター著「サラブレッドの世界」の 2 冊。翻訳は共に”佐藤正人”とあった。
 これが私の佐藤さんとの初めての出会いだった。

 血統センターの出版物は、当時神楽坂にあったセンターまで直接出かけ、ほとんど例外なく購入した。その中でも「サラブレッドの世界」には感銘を受け、翻訳者である佐藤正人さんの名前は脳裏に強く焼き付けられた。

 卒業が近づいたころ、新聞の広告で”みんと出版”より、H ・ H ・イーゼンバルト、F ・ M ・ビューラーの共著「馬 - その栄光の歴史」という本が出版されていることを知った。
 翻訳者が佐藤正人と知ると、何としても欲しくなった。しかし定価は 19000 円。高くてとても手が出せない。一計を案じた私は、学生結婚 ( 同棲の後 ) していた妻に、卒業論文に必要だからと偽って代金を出させた。西洋史学科に進んでいた私は、卒論のテーマを「ヨーロッパ競馬史」としていたのだった。

 ところで、卒論には原書を 3 冊以上参考文献とする条件がついていた。私は、中央競馬会の図書館を紹介してもらい、手ごろな書物を引っ張り出して参考文献とした。
 その一つがデニス・クレイグの「Horse Racing」という本だった。ところが、一生懸命訳している私に、図書館の司書の女性が突然、
「この本、訳本がありますよ」
 と、親切に本を持ってきてくださった。それは、佐藤正人さんが競馬会の職員の方のためにと訳された非売品の本だった。
「う〜ん、またしても佐藤正人…」
 この本は、後に PR センターから「競馬 - サラブレッドの生産および英国競馬小史」として発売されたから、ご存知の方も多いと思う。

 私が日刊競馬に就職して数年後の昭和 55 年、会社の創立 30 周年の記念行事の一つとして、ヨーロッパ競馬ツアーが景品の、社員を対象とした懸賞論文の募集があった。
 これに応募し当選してツアーの参加名簿を見ると、その中に”佐藤正人”の名前。添乗の中野さんに確かめると、間違いなくご本人との返事。私は驚き、狂喜した。2 週間の日程の間に、あれも聞こう、これも聞こうとてぐすねを引いていた。
 しかし、ツアーの中でもそれぞれのグループがあり、むやみに佐藤さんに話しかけるわけにもいかず、結局聞いたのは以前から佐藤さんが書かれていた、
「現役時代大活躍した牝馬は繁殖にあがって期待外れに終わることが多い」
 という文章に対する見解と、あとちょっとしたことの一つ、二つだった。
 しかし、私が佐藤さんの本の熱心な愛読者であることだけはしっかりと伝わった。それで十分満足だった。

 それから数年後、私は意外なところで佐藤さんと再会を果たす。
 競馬研究家の山野浩一さんが、クリスマスとご自分の 50 歳の誕生日と、新築した家の披露を兼ねたホームパーティーを主催され、その場で久しぶりにお会いしたのだ。
 名を名乗って挨拶すると、佐藤さんもかすかに私を覚えておられ、再会を喜んでくださった。その夜、タクシーで吉祥寺の駅までお送りすると、
「今日は気分がいいから、私の知っている店で飲みなおしましょう」
 とお誘いを受けた。
 さらにタクシーを飛ばし、着いたそこは、以前住んでいらした阿佐ヶ谷の昔馴染みのお店ということだった。一緒にカラオケも楽しんだ。
「私はね、歌は下手だけど、この歌が一番好きなんですよ。カラオケではこの歌しか歌ったことがないんですよ」
 と言って歌われた歌は箱崎晋一郎の「抱擁」。とつとつとして、あれから何年も過ぎ去った今でもいつしかふと口ずさんでしまうような歌だった。

 それから数年間、佐藤さん命名の「山野パーティー」は、年に一度、佐藤さんにお会いでき、お話のできる楽しみな日となった。
 しかし、山野パーティーは、佐藤さんの足が不自由になり、出席が困難になるのと歩調を合わせるかのようにすこしずつ途切れがちとなり、この 2 〜 3 年はお休み。何年間か、佐藤さんとお会いできない日が続いた。

 突然のメールだった。
 山本一生さんのそのメールには、佐藤さんの具合があまりよろしくないと、そう記してあった。驚き、佐藤さんの奥さんと連絡を取って、山本さんと二人でお見舞いに伺いたい旨を伝えた。

  10 月 29 日、午後 1 時過ぎにお宅に伺うと、先ほどまでは起きて待っていらしていたと聞き、いたく恐縮。
 体重はひところより 40 キロ近くお痩せになっていたが、意識、記憶がしっかりされていたので安心。最初はおぼつかなかった言葉も、しだいにしっかりとした口調に変わっていった。

 話の合間に、書斎、書籍類を見せていただき、一緒にミカン、栗もなかも食べた。
 奥さんを交えて 2 時間近く歓談し、そろそろおいとまの時間・・・。
「春になると、このあたりは桜でいっぱいになるんですよ」
 の奥さんの言葉に、
「それじゃあ、佐藤さん、桜の花が咲くころ、また二人でお見舞いに伺いますよ」
 と言って、おいとまごい。

 そう言いながら、ふと佐藤さんの手を取りたい衝動に駆られた。しかし、そうすると二度と会えなくなるような気がして思いとどまった。( 思いとどまってよかった。もしそうしていたら、ことあるごとに佐藤さんの手の感触を思い出し、涙が止まらなくなってしまう… )

 お通夜の席で、私たちのお見舞から5日後、急に容態が悪化して入院されたと奥さんから伺って驚いた。山本さんと二人、しみじみ、お見舞いのタイミングの良さを喜んだ。

 佐藤正人さんは亡くなった。しかし、佐藤さんの翻訳された本も残っていれば、競馬研究ノートなどの著書も数多く残っている。
 ページを開けば、そこには佐藤正人がいる。佐藤さんは、活字の世界に戻った。そう思えばいい。私にとっては、面識のできる 25 年前と同じ・・・。

 有馬記念が終われば、競馬は 1 週間休み。時間はたっぷりあるから、もう一度佐藤さんの「わたしの競馬研究ノート」を最初から読み直してみよう。
 そうすると、きっと佐藤さんに直接聞いてみたい文章が何ヵ所も出てくる。そのとき、改めて佐藤さんは亡くなったのだと、しみじみ思うことだろう。


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■ あるホースマンの死
                               伊与田翔 
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 ジャパンカップが終わった翌 11 月 26 日、一人のホースマンがひっそりとこの世の舞台から退場した。佐藤正人さん、享年 89 歳。
  1939(昭和 14)年、東京帝国大学農学部を卒業後、日本競馬会、農林省畜産局競馬部、日本中央競馬会に勤務、日本中央競馬会理事、競走馬理化学研究所、日本軽種馬協会常務理事を歴任―。

 赫々たる氏の経歴が訃報を告げるスポーツ新聞でも触れられていたが、はっきりいって、競馬行政の世界において、佐藤さんが、どんなお仕事をし、どんな考え方を持っておられたのか、私はほとんどしらない。うっすら了解しているのは、欧州や米国などから、日本で供用するための種牡馬を輸入する仕事に、壮年時代の氏が尽力されていたことぐらいだ。

 もっとも競馬の行政マンとしてはしらなくとも、競馬に関する著述家としての佐藤さんなら、いささか存じあげているつもりだ。

  1970 年代に競馬を覚えた私にとって、海外競馬の最大の情報ソースは、雑誌「優駿」だった。その中でも、海外競馬のレース結果や最前線のニュースの紹介に健筆を揮っておられたのが、ほかならぬ佐藤さんだったのだ。

 今でこそ、雑誌、ネットに海外競馬の情報が溢れ、NHKの衛星放送ではリアルタイムに向こうのGIレースが放送されるようになったが、私が競馬をはじめた 70 年代というのは、そうした情報の入手は困難を極めた。
 そんな中、佐藤さんが、「優駿」に載せておられたもろもろの優雅な文章は、それこそ干天の慈雨のように感じられたものだ。
 ただ、海外の情報を得られただけではない。今にして思うと、私は、競馬観、競馬に対するセンスも、氏から有形無形の影響を受けたように思う。

 該博な教養と高い見識を備えた人物が、24 時間、競馬漬けになったとき、どんな仕事が果たせるか。その答えは、1968 年から 1994 年まで 16 冊の書として結実した『わたしの競馬研究ノート』の中に見出すことができる。

 例えば、佐藤さんが、初期のディック・フランシスの小説の翻訳における競走馬の年齢表記上の誤りを正したのは、今思っても痛快であった。今は、2歳は日本でも海外でも同じ2歳になってしまったが、少し前まで、海外の 2 years は日本では3歳と表記されていた。それを件の訳は、2歳と平気で訳していたのである。

 それまで書肆の側に、所詮、競馬と侮る気持ちがなかったとはいえないと思う。2歳でも3歳でも似たようなものではないか、というわけだ。が、2歳チャンピオン(ややこしいが、今は日本でもそうなった)という言い方は、競馬ファンとしては受け入れられる表現ではない。ひいてはフランシスを冒涜する以外、何ものでもない、と佐藤さんは説いた(と記憶する)。

 むろん現在のフランシス・シリーズの邦訳は、とても立派な仕事で、競馬を知らない人たちの間でもよく読まれるらしい。高名な作家が、好きな書に指を折ることも少なくない。その陰には、佐藤さんのような「怖い」読み手が競馬ファンの側にいることを、訳者と書肆に知らしめた功績を見逃せないと思うのだ。

 考えてみると、佐藤さんが、フランシスの邦訳を許せなかったのも当然で、それというのも、氏自身、いろいろ残してこられた仕事の中で、翻訳者としてのそれをもっとも愛し、また自信を持っておられたふしがあるからだ。

 私事でいえば、レスターの『サラブレッドの世界』、ヒューイットの『名馬の生産』、簡潔かつ流麗なこの両訳著は、日常もっとも、照会することの多い書物に属する。

『わたしの競馬研究ノート』こそは、わが競馬界が生んだ金字塔であり、それは、競馬を志す後進者が汲めども尽きざるヒントの養水池である。残念ながら、生前、佐藤さんに親炙する機会を持つことはなく終わったが、これらの書物を通して、私は、今も佐藤さんに私淑することができる。

 東京競馬場内にある競馬博物館には、幾多の名馬が顕彰されている。これら殿堂馬同様、佐藤さんの訳著書は、わが国競馬文化の最良の遺産と断言することができる。


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■ お釈迦様の手のひらに乗った孫悟空
                               森本 健 
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 佐藤正人さんが亡くなられました。私にとって、佐藤正人さんという方はかなり遠い存在で、どう説明すればよいのかと迷っていましたら、ようやく例が見付かりました。お釈迦様の手のひらに乗った孫悟空ですね。
 何も私が孫悟空のように超能力があるというのではなくて、私が少し競馬の事について考えたり調べたりして見ると、大抵そこには佐藤さんがすでにそのようなことを書かれているということが度度あったということなのです。
 2つ3つ例を挙げましょう。

 最初は実に馬券に関してなのですが、昔もう 10 年以上前に私は、「必勝君」なる解析ソフトを作って 1 日の内にどういったタイプの馬がどの位勝つかと分析し、実際それで馬券の収支を年間黒字にしていたことがあります。
 その解析ソフトから、大体本命馬が勝つのは 3 回に 1 回であるという結論を導きました。そして、偶々出張したアメリカで競馬をやる機会があって、そこで試しても結構使えるということが分かり、悦に入っていましたが、ある時見るとも無く眺めていた本に、何故か本命馬が勝つのは大体 3 分の1で、これは世界共通であると書かれていました。それは佐藤正人さんの本でした。(その本持っていた筈なのですが、今探すと見つかりません。本屋で立ち読みしたのかもしれません。)

 ある時期、これは 8 年ほど前ですがこんどは血統に興味を持って、血統表を書いたりしていました。ただ毛色に関しては殆ど興味もなく、また当時はその英語表記なども知らずに面倒なので適当にアルファベット一文字で b とか g とか書いていました。
 それでも書いていると気になるので、ある時 b は確か Bay の略であることを知っていましたので、それで辞書を引いたら、栗毛とありましたので、 Bay は栗毛だと思っていました。
 暫くして、ある本に載っていた血統表を見ていたら ch というのがあります。これは何だろうと思って調べたら、Chestnut だそうで、「それならこれが栗毛じゃないか、Bay って一体何だ?」と思って他の血統表と見比べて、「鹿毛」であることが分かりました。
 そうしたら、やはり同じ事を佐藤さんが書かれているのですね。「なぜディック・フランシスの小説に鹿毛の馬は出てこないのか」という題でした。日本の英和辞書の殆どが 、Bay を「栗毛」と書く間違いをしているのだと、初めてこの時知りました。

 もう一つは、私がアメリカに来て馬の名前に興味を持ってからですから、比較的最近の話です。
  Sysonby という有名な馬がいて、これは欧米人でも発音が良く分からないようです。私も最初は分からずに、ある書物に書かれていた「シスオンバイ」というのを信じておりました。つまり、 Sys+on+by だと思ったのですね。
 ある時この馬の名前の意味を調べていて、 Sy(s)+son+by だと分かりました。Sy というのは Syn の変形で、「共に」「同時に」といったような意味です。シンクロナイズド・スイミングや、場外馬券売り場のサイマルキャストなどに使われる Syn のことです。
 これは l,m,b,p などが来ると Sym となり、シンボル(Symbol)などもそうですし、後ろに s がくると Sys 、または殆どの場合重複した s を落として Sy となります。 System という言葉も、Sy+stem で幹が共通して一貫した体系という意味ですね。
 この Sysonby は、息子と共有する狩猟小屋から付けられた名前で、Sy(共に)+ Son(息子)+ by(側)と言う意味であり、従って発音はサイサンビー、ないしはサイゾンビーであると分かりました。
 これはさすがに、余り知っている人はいないだろうと思っておりましたが、ある時本を読んでいたら、ちゃんとサイゾンビーと書かれていました。本の名前は「名馬の生産」、著者はエイブラム・ S ・ヒューイットで、訳者はもちろん佐藤正人さんでした。

 もうこれで十分でしょう、私などが佐藤さんの優れた業績などをあれこれ書かずとも、皆さんよくご存知でしょうし、まして私ごときものとの関係をこれ以上書いても意味がありません。
 最後に私の興味をもっている馬名のことで、佐藤さんが、美しい日本語の馬名を付けて欲しい、と書かれていたということを締めくくりに記しておきます。

 改めまして、謹んで故人のご冥福をお祈りいたします。


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■ 佐藤正人の著書訳書一覧
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[著 書]
 「競馬雑記帳」 中央競馬会 1967
 「わたしの競馬研究ノート」 中央競馬会 1968
 「わたしの競馬研究ノートの2」 中央競馬会 1969
 「わたしの競馬研究ノートの3」 中央競馬会 1970
 「わたしの競馬研究ノートの4」 中央競馬会 1971
 「わたしの競馬研究ノートの5」 中央競馬会 1972
 「わたしの競馬研究ノートの6」 中央競馬会 1973
 「わたしの競馬研究ノートの7」 中央競馬会 1976
 「わたしの競馬研究ノートの8」 中央競馬会 1976
 「趣味の競馬学」 中央競馬PRセンター 1980
 「わたしの競馬研究ノートの9」  中央競馬会 1981
 「わたしの競馬研究ノートの10」 中央競馬会 1982
 「続・趣味の競馬学」 中央競馬PRセンター 1987
 「わたしの競馬研究ノートの11」 中央競馬会 1987
 「わたしの競馬研究ノートの12」 中央競馬会 1988
 「わたしの競馬研究ノートの13」 中央競馬会 1989
 「わたしの競馬研究ノートの14」 中央競馬会 1990
 「わたしの競馬研究ノートの15」 中央競馬会 1991
 「わたしの競馬研究ノートの16」 中央競馬会 1994
 「競馬研究ノート」 中央競馬PRセンター 1995
 「蹄の音に誘われて」 毎日新聞社 1995
[翻訳書]
 フェデリコ・テシオ「サラブレッドの生産」 中央競馬会 1961
 プレストン・バーチ「サラブレッドの調教」 中央競馬会 1966
 チャールズ・レスター「サラブレッドの生産」 中央競馬会 1967
 デニス・クレーブ「競馬(サラブレッドの生産および英国競馬小史)」 中央競馬会 1968
 デニス・クレーブ「クラスターメアからの競走馬の生産」 中央競馬会 1969
 H・イーゼンバルト他「馬・その栄光の歴史」 ミント社 1973
 C・E・G・ホープ他「サイクロペディア馬」 日本中央競馬会弘済会 1976
 エイブラム・ヒューイット「名馬の生産」 サラブレッド血統センター 1985


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■ 佐藤さん、お元気で! 私、頑張りますから
                              山本一生  
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「もう、すっかりお痩せになって、何が起こってもおかしくありませんよ」
 佐藤正人さんの近況を、夏に自宅を訪れたJRA広報室の鈴木健夫さんからうかがったとき、反射的に後悔の念がわき起こった。体調を崩されたと聞いていて、連絡をしなければと思ってはいたものの、なんとなく、のびのびになっていたからである。

 家に戻ってから飯田さんにメールを送ると、しばらくして電話がかかってくる。
「やっぱりそうですか、もしかして、と思っていたんですよ」
 たぶん私と同じ気持だったのだろう。
「ちょっと、連絡をとってみますから」と、飯田さんはいって電話を切った。

 それから、落ち着かない毎日が続いた。
 ホームに電車が入ってきて、乗ろうとすると、心の中をすきま風が横切るのがわかった。あるいはバーボンを飲みほし、カウンターにグラスを置こうとしたとき、全身から力が抜けていったりもした。
 どこかで、佐藤さんのことが気になっていたのだろう。

 数日してから、飯田さんから連絡が入る。夏のころよりも体調は戻ってはいる、ただ、お二人には会いたいので、お出かけ下さい、とのことだった。
 急いだほうがいいですから、という飯田さんの勧めで、10月26日にうかがうことにする。

 秋日和の、穏やかな午後だった。
 柏の駅からバスに乗り、十五分くらい揺られたあとは、夫人から送られてきた地図を頼りに歩いていった。新しい団地があって、古い農家があって、その間には北総の台地が広がっていた。空は一面に水色で、そのうえを白い雲が、まるで川面をただよう枯れ葉のように流れていく。

「お目にかかるのも、これが最後かも知れない」 
 そう思うと急に、「相馬久三郎氏を悼む」の最後の一節がよみがえってくる。
 昭和十八年の秋、相馬久三郎氏の訳したエッチンゲンの『サラブレッド』が出版されたとき、佐藤さんは日本競馬会の担当者だった。
「ほん訳が完成して間もなく、こんな大部のものを訳したのは、はじめてだから、お祝に一杯飲もうとさそわれて本郷で、二、三軒飲んでまわったのも、もうなんだか悲しい思い出となってしまった」
 すでに連合軍の反攻が本格化していたころに、二人の優れた研究者が一冊の名著の翻訳出版に打ち込む姿は、想像するだけでも心が洗われる。たぶん私は、佐藤さんの文に接するたびに、そうやっていつも心が洗われてきたのだろう。

「待っていたんですけどね、待ちくたびれて、少し横になっています」 
 私たちを部屋に案内しながら、夫人はいわれた。
 少しして、車椅子に腰を下ろした佐藤さんが姿を現し、
「遠くまで、わざわざきていただいて、ありがとう」
 と、たどたどしい口調で話される。
 一見して、すごくお痩せになったのがわかった。四十キロも痩せたそうで、それでも鈴木さんが夏にいらしたころよりも、ずいぶんと具合はよく、体重も少しは戻しているとのことだった。
「最近歯が悪くなって、好きな物も食べられませんし、目も手術してから、本も読めませんし・・・」
 と、夫人が様子を話されると、佐藤さんはつぶやくように、
「年をとってしまって、つまらないよ」
 といわれる。
 以前なら、中山競馬場まで夫人が車で連れていくと、だれかが送ってきてくれたが、足が悪くなってからは、もうそれもできなくなったという。

 しばらく体調のことをうかがうと、やがて自然に競馬へと話題は転じる。京都競馬場長時代にジョン・ウェインが訪れたことや、イギリスにダービーを観に出かけたときのことなどを話されているうちに、佐藤さんの口調からは、少しずつたどたどしさが消えていくのがわかった。しかも驚いたことには、記憶は明瞭で、その頭脳には、いささかの曇りも感じられなかった。

 これだけお元気で、これだけしっかりされているのなら、と思っていると、突然に佐藤さんが、
「最近、競馬の雑誌もなくなっていて、山本君の仕事も少なくなったでしょう」
 といわれる。
「少なくなったどころか、全然ありません。いまは、有馬頼寧さんの評伝を書いています」
 と、私は答えた。

 それを聞いて、少し首を傾げると佐藤さんは、テーブルの上にある厚い本を手元に引き寄せ、私のほうを向きながらいわれる。
「これはチャールズ・レスターの本で、以前に私が白井さんのところで出したものです。新しくなって再版されたものです。もうJRAにも知っている人がいなくなっているけど、今度、副理事長にあったらいっておきます。これの新しいのを翻訳して、出してくれるように、と。山本君には適した仕事じゃないかと思ってね」
 見覚えのあるお顔だった。お痩せにはなっているが、まさしく、あのときの眼差しであり、あのときの話し振りだった。ヒスロップを翻訳するようにといわれたときの、そして、エッチンゲンを翻訳するようにといわれたときの。
 私はそのとき、いま佐藤さんが、やるようにいわれているのは、サー・チャールズ・レスターの翻訳だけではないことを、痛いほどわかっていた。
「ええ、ありがとうございます」
 と答えると、夫人が口添えされる。
「いらっしゃるというので、昨日書斎で探していたんですよ。そうだ、書斎をご覧になります?」
「そうですね、お願いします」
 と、飯田さんが答える。
 書庫のように本棚が並んでいて、その奥に机がひとつ置かれていた。佐藤さんがいつも前に座られていた机だった。机の上には、柔らかな秋の日が差し込んでいた。

 一通り書斎を見せていただいたあとで、部屋に戻り、こちらの土地にきたころの話や、以前は高円寺にいらして、じつは荻窪にあった有馬頼寧さんの自宅と遠くないことなどをうかがう。
 そのあいだも、時間は瞬く間のうちに過ぎていった。一瞬、一瞬が、せつないほど足早に過ぎ去っていった。

 そろそろ、お暇をする時間だった。それを察した夫人が、
「春になると、このあたりは桜でいっぱいになるんですよ」
 といわれると、
「それじゃあ、佐藤さん、桜の花が咲くころ、また二人でお見舞いにうかがいますよ」
 といいながら、飯田さんが腰をあげる。
 私も立ち上がった。
 でも、なんと挨拶すべきかわからなかった。何といえば、と迷ったとき、ふと、あのときのお顔がよみがえる。ヒスロップ、エッチンゲン、チャールズ・レスター。
 思う間もなく、言葉が口をついて出てきていた。
「佐藤さん、お元気で! 私、頑張りますから」
 かすかにうなづいていただけたものと、私はいまでも思っている。

 外に出ると、すでに日は傾いていた。
 風が少し冷たく感じられた。
 佐藤正人さんが最後の入院をされたのは、それから五日後のことだったという。



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  競馬の文化村「もきち倶楽部」             No. 230
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【発行者】     安部俊彦
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【編集人】     山本一生
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【WEB】     http://www.bunkamura.ne.jp/mokichi-club
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