|
|
John Dizukes "Yankee Doodle Dandy---The Life and Times of Tod Sloan" |
英米をはじめ、歴史上名騎手と呼ばれたジョッキーは数多くいるが、3人をあげるとすればやはり、拳銃自殺のフレッド・アーチャーと吝嗇脱税のレスター・ピゴット、そしてモンキー乗りのトッド・スローンだろう。
しかし、アーチャーやピゴットと比べると、スローンについて書かれたものは意外と少ない。
ダービー卿の調教師だったジョージ・ラムトンの自伝『知っている人、知っている馬』にも出てくるし、チャールズ・パーマーの『金と名誉のために−−アメリカ競馬物語』やウィリアム・ロバートソンの『米国競馬史』などにも、少しは出てくる。
だが、きちんとまとまったものとしては、『トッド・スローン自伝』以外は、ほとんど見掛けることはなかった。
わが国においても、佐藤正人氏の『続・趣味の競馬学』に収められている「名騎手の末路」ぐらいだしかないかもしれない。
トッド・スローンは、1973年にアメリカのインディアナ州コスモで生まれている。兄が騎手だったこともあって、厩舎関係の仕事をしていたが、騎手にならないか、という話はあったものの、すぐには上達しなかったという。
その後、偶然にモンキー乗りを発見して才能が開花し、ニューヨークを経由して、1997年にはイギリスの競馬場に姿を現し、衝撃を与える。
それまでイギリスでは、長い手綱・長い鐙が主流だったので、短い手綱・短い鐙のモンキー乗りは、それはそれは珍妙に見えたことだろう。じっさい「枝の上の猿」と揶揄されたが、勝率4割をこえる成績を収めると、だれもが真似るようになる。
じつのところ、モンキー乗りを発見したのはスローンではないし、イギリスで初めて披露したのもスローンではないにもかかわらず、彼が「モンキー乗りの元祖」といわれるのは、与えた衝撃があまりにも強烈だったからだろう。
しかし、成績の良いというだけの騎手は、血統知識を詰め込んだ競馬評論家のように退屈だが、スローンはそうではなかった。
小さな身体に、態度は大きく、酒も、女も、ギャンブルも大好きで、付き合っているのは、アメリカから渡ってきたいかがわしい男たち、女たち。ようするに、デイモン・ラニアンの語るような「野党どもと女たち」だったわけで、これを気位の高いイギリス・ジョッキークラブが捨て置くことはなかった。
1900年の末には、自分の馬の馬券を買ったことなどを理由に、事実上イギリス競馬界から追放される。
ジョン・ディズケス著『トッド・スローンとその時代』は、このあたりのことが、じつに詳しく描かれている。ジョッキークラブが憤ったのは、モンキー乗り、ドーピング、ギャンブラーなど、アメリカの持ち込んだ競馬であり、それを放置すると、競馬はギャンブルになりはてる、と考えたのだという。トッド・スローンは、その人身御供だったのかもしれない。
それから「名騎手の末路」が始まるわけで、アーネスト・ヘミングウェイは彼をモデルに、名作『私の父』を書きあげる。
最後は南カリフォルニアの競馬場で、切符切りをしていた、とデイモン・ラニアンは伝えている。
百年前のアメリカとイギリスの競馬が対比され、その中を、トッド・スローンという星が流れていく様子が、じつにきちんと書き込まれていて、なかなかの名著といえよう。