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直接、競馬に材を求めた作品も悪くないけれど、競馬が背景としてさりげなく点描されているのも味わいのあるものである。 新ミステリー女王こと、高村薫女史の最近作『レディ・ジョーカー』は、嬉しいことに、そんな競馬のシーンが頻出してくる。そして企業テロや差別問題を扱ったこの傑作ミステリーに、一層の彩りを添えている。 周知のごとく本作品は、すでに時効が成立したグリコ森永事件を下敷きにしている。 舞台こそ、ビール業界におきかわり、年代も1990〜1995に移し替わっているものの、企業のトップが誘拐され、数日後に無事解放されるという図式は同じだ。 またグリ森事件では当時、犯人グループと企業との間で何がしかの裏取り引きの噂や、差別問題に絡んだトラブルにまつわる話が流れたが、この日之出麦酒では、まさにそうした事実のあったことが、ミステリーの前提になっている。 小説は、レディ・ジョーカーを名乗る日之出麦酒を脅す犯人グループと『マークスの山』同様、高村作品のヒーローの合田刑事と義兄の加納検事コンビの知恵比べ、といった体裁を取って進み、その犯人グループの「鑑」(捜査上注目すべき犯人たちの共通項)が競馬というところで、東京競馬場や後楽園ウインズが頻出することになる。 最初に登場する競馬シーンは、1990年11月4日の東京競馬場の背景だ。〈二十日ぶりの府中は雨だった。午後から雨脚が強くなり、9レースの始まるころには、それまでゴール付近にでていた傘の群れも、次々に散り始めた。こういう日には、スタンドに押し込められた十数万の人いきれは、絞ればしずくが垂れるような湿り方になる。〉 やがて、10Rの昇仙峡特別から11RのユートピアSへと、時間が流れていく間に、薬局店主の物井、刑事の半田、旋盤工の陽ちゃん、在日の信用金庫職員の高、それに、元自衛官でトラック運転手の布井とその娘で障害者のレディといった仲間が、白波五人男よろしく紹介されていく。 ここで注目すべきは、この冒頭から分かるように、作品中に出てくる競馬のシーンが、すべて現実のレースから採られていることだろう。 凡俗の作家なら、インターエリモやアヤノロマンといった現実の馬ではなく、架空の競走馬やレースを登場させるところだ。 そこをあえて、現実のレースを登場させ、しつこいくらい、天気や配当などを織り交ぜることで、高村女史は、自然な形で、見事に小説空間における時間のリアリティーの獲得に成功しているといえる。 ただし、競馬に全く馴染みのない読者は、さぞや煩雑なことではないかと推測する。そうした意味で、競馬の下知識(それも相応な)がないと、この小説の面白さは、味読できないのではないだろうか。 例えば、犯行グループの主犯ともいえる物井は、青森八戸近くの戸来(へらい)村(現・新郷村)の出身という設定となっているが、競馬ファンなら、その犯行前夜、グループが集合するのが、1994年4月24日の天皇賞当日の東京競馬場という点に、にやりとさせられるに違いない。 何故ならその日、物井と同郷の柴田政人騎手が、落馬事故に見舞われたからだ。この事故が原因で、柴田が後に引退に追い込まれたことは、大概の競馬ファンなら知っている。 こうした事実を背景にするのとしないのでは、この小説や登場人物の読み方に大きな違いがでてくるはずだからである。 そのほか、犯行後の1995年8月19日、唯一、犯人グループの鑑が、競馬にあることを本能的に嗅ぎ分けた合田刑事が、後楽園ウインズで、ブライトサンディーの勝った北海ハンデが流れる中、半田刑事を尾行する場面が登場するし、秋になって10月7日には、再び東京競馬場が登場。6970円の高配当だった3歳戦のサフラン賞を、物井はアジュディケーター、ホクトペンダント、ソロシンガーのボックス馬券で的中させる。 物井は、 〈三歳馬だと、当然馬体の大きい方が強いに決まっている。しかも、一四〇〇メートル程度の距離では、本来の脚質より、最初から飛び出して逃げ切ってしまうか、先行して後半バテるか、最初に遅れたら最後までそのままか、三つのどれかになる公算大。となると、ここは前走と前々走の成績からみて、順当に、馬体の大きい三頭のどれかが先行して、逃げ切るレースに違いない〉 と読むのだが、このあたり、さすがに競馬歴40年という設定に背かぬ渋い予想というべきか。 その渋井が、青森県戸来村の出身というのは先に触れたが、筆者などが連想したのは、ヘライ××という競走馬が結構いることである。 早速、手元の血統書などで調べると、ヘライシルバー(1977 父アレツ)やその娘ヘライコマチ(1984 父リアルム)といった馬がいたことが判明した。 ただし、このヘライは、地名ではなく、戸来直治さんという十和田市の生産者名から戴いた名前らしい。 そして戸来村の後身の新郷村には、数年前まで桜井政美さんという馬産農家がいたはずだが、一番新しいサラブレッド全国馬名簿(1994年生産)にその名前は載っていない。 初出:『競馬通信大全』12号 1998 年3月 |