第10話 吉川英治と根岸競馬

 日本の作家・文士で、競馬贔屓というとまず思い浮かぶのは、菊池寛、吉川英治の両氏だろう。
 文芸春秋を創刊し、“無事是名馬” の名言を遺した菊池寛はまた別の機会に譲るとして、ここでは国民作家として令名を馳せた後者と競馬の関わりについて一瞥を加えてみたい。

 私事で恐縮だが、吉川英治というと、小学校の高学年から中学二年に上がるくらいまでの間に、貪り読んだ記憶がある。
 よく戦前、あるいは昭和ヒトケタ世代の人の回想文を読むと、少年時代に講談本を耽読した風に書かれてある。私の吉川英治熱は、やがて戦記物への興味へと移り、『歴史読本』なる雑誌を講読、教室に持ち歩くという具合に発展するのだが、どうもわれわれ昭和 30 年代前後に生れた世代にとって、吉川氏の諸著作は、講談本の役割を果たしていたように思えてならない。
 それというのも、ある私立高校に進んだ私は、そこでやはり歴史読本や源平藤橘の系図で、頭の中身をぎゅうぎゅう詰めにした男に邂逅したからである。
 この男とは、新燕盛遠のペンネームで、世界の種牡馬事典を著わした畏友のTのことで、いまは年に2回ほど海外競馬を視察しながら、源平の系図のかわりにアルファベットの馬名で頭の中身をいっぱいに満たしている。
 どうもTを見ていると、吉川英治と歴史読本と競馬には深遠な関わりがあるように思えてならない。

 閑話休題。
 その吉川氏といえば、昭和 30 年の皐月賞馬ケゴンを始めとする多数の競走馬のオーナーとして夙に知られる。あの競馬に対する並々ならぬ関心と愛情が、奈辺から来るのか、不思議でならなかった。が、最近、氏の『忘れ残りの記』(角川文庫・現在絶版)なる回想文を散見していて、目から鱗の落ちる思いがした。例えば冒頭にこんな一節がある。

〈ぼくの生れた当時の両親は、横浜の根岸に住んでいた。その頃はまだ横浜市ではなく、神奈川県久良岐郡中村根岸という田舎だった。家の前から競馬場の芝生が見えたということである。〉

 う〜む。競馬場の真ん前で生れたということは、すでに人生の諸実相を幼いみぎりから、さんざん見聞したことにほかならない。後年の和製バルザックの基礎は、ここで固められたとするのは、私の思い過ごしだろうか。
 この記述から数ページ後には、こんな回想が語られる。

〈明治天皇の競馬好きは内外に著名であった。春秋の根岸競馬へは、前後十数回も行幸があったことかと思う。祭日か日曜日なので、ぼくらは学校の先生に引率されていたわけではないが、みんな日の丸の小旗を持っていた。〉

 遠い明治の一日を鮮やかに余すところなく描出しながら、吉川は、
〈戦後は天皇も民主風になられたとはいっても、なお相沢の貧しい民衆と陛下との間に見られたような風景はどこにもないように思う。〉
 と筆を進める。
 こんなふとした一節に、『新平家物語』で氏が創造した人物、麻鳥の面差しを感じるのは私だけだろうか。

 さらに吉川の回想は続く。
〈ぼくの父は馬は持たなかったが、経営している横浜桟橋合資会社は、外国人との折衝が半ば商売みたいなものだから、根岸倶楽部にはよく出入りしていたらしい。ぼくも競馬はたびたび見せられ、家庭でも競馬の話で賑わった。まだ横浜競馬も初期だったせいか、一般にも競馬を汚れたものと見るふうはなかった。特に天覧競馬のレース当日などは、横浜中の祭典といってもよかった。市中もその話題で持ちきって、スペインの牛祭か何かのような騒ぎだった。ついでに云うが、その頃の名騎手カンザキの名は、ぼくら幼童の耳にも、英雄の如きひびきと憧憬をもたせたものである。〉

 この名騎手は、吉川の唯一の現代小説というべき『かんかん虫は唄う』(吉川英治歴史時代文庫)で、島崎と名を替えて登場する。
 ちなみに、“かんかん虫” とは、造船所のドックで巨船の腹にとりついて、かんかんと錆び落としをする工員のこと。
 かんかん虫たちが生む相沢町界隈は、イロハ長屋と呼ばれ、小説は、その長屋の住人のひとりである少年トムこと千坂富麿を主人公に、仲間の愚連隊が開化期のヨコハマを舞台に活躍する一種のピカレスク・ロマンといえるだろう。

 以下はそのトム公たちが、意気揚々、競馬場へ乗り込む場面だ。
〈根岸の場内へ行ってみると、きょうの最興味である特別のハンデキャップ競走が内外人の人気を煽って、一等観覧席からひろい柵のまわりに至るまで人間をもって埋まっていた。午前に居留地である外人の持ち馬であるアメリカン・トロッターが大穴を出したというので、ファンの眼は血走っていた。……やがて、騎手たちはスタートを切った。弦を離れて行った七色の点が星のように馬場を駆け出した。巨大な賭博の回転盤が旋り出したのだ。……そして口々に、自分の買馬の名を呼んだ。或いは惚れている騎手の名を金きり声でさけんだ。「島崎! 島崎!」〉

 日本競馬史に掲載されている資料などで、カンザキという名の騎手を探すと、明治 17 年、上野不忍の池で催された秋季共同競馬の出走表に、神崎力蔵という名が見える。
 時代は下って明治 41 年、馬券禁止時代に日本の競馬人と馬が多数参加したことで有名なウラジオストック競馬でも、カンザキの名がある。ただしこちらは神崎利木蔵。が、音は同じなので、おそらくは同一人物ではないだろうか。
 少年・吉川英治の脳裡に刻まれたカンザキ騎手とは一体、どういう人物だったのか? これはここではやや手に余るテーマなので、いずれじっくり取り組みたいと思う。

 さて吉川英治氏の持ち馬としてはなんといっても、昭和 30 年の皐月賞馬ケゴンが有名だが、氏は翌年、ある事件を境にぷっつりと競馬場に姿を現さなくなったという。その辺りの事情は、現在、根岸競馬の後身の記念公苑に奉職している早坂昇治氏の『競馬異外史』に明らかにされている。

 昭和 32 年、アナウンサー時代の早坂氏が、吉川邸を訪れて、インタビューしていたときのこと。
〈「このごろは競馬場にお見えになりませんね」とうっかり不用意な質問をしてしまい、思わずハッとなった。というのは、昭和 31 年(1956)の日本ダービーで、スタート直後吉川英治氏の愛馬エンメイが、好位置をしめようとする各馬にはさまれて転倒し、エンメイは殺処分となり、阿部正太郎騎手はひん死の重症を負うという大事故があった。吉川氏はそれ以来二度と競馬場に姿を見せないことを誓った、といわれていたからだ。〉

 この年のダービーの出走馬は 27 頭。優勝馬はヤシマ牧場のハクチカラであった。
 エンメイは、父が名馬クモハタで、母は 12 勝の女傑ミカヅキ。重賞の常連として人気の高かったミスター善戦マンことナイスネイチャの祖母の父ケンマルチカラは、このエンメイの半弟だ。
 その母の血を遡るとペットクイン〜ペットレル〜悦賀〜第三エスサーディを経て東北種畜牧場が明治 41 年(1908)に英国から導入したデズモンド牝駒のエスサーディ Esther Dee に到達する。

 思えばこれから8年後の昭和 39 年、三冠馬に輝いたシンザンの好敵手で、ダービー、菊花賞の2着馬ウメノチカラもまた、第三エスサーディの末裔に当たる。
 ダービーで、もっとも優勝馬と差のなかった2着馬といわれるリンドプルバンもこの一族だし、このエンメイといい、ウメノチカラといい、よくよくこの血脈は、悲劇の主人公が揃っているというべきか。

 が、そのシンザン・ウメノチカラの攻防を瞼にすることなく、吉川英治は、昭和 37 年、七十一歳で文学に身を捧げた生涯を閉じている。


初出:『競馬通信大全』18号  1998 年9月