歴代ケンタッキーダービー馬(及びアメリカ三冠)の名前の意味
−ダービー以前(その1)アメリカの三冠レースについて

 イギリス・ダービー馬に続いて、アメリカのケンタッキー・ダービー馬について、これから連載していきたいと思うので、今まで同様にお付き合い願いたい。

 ところで、中心は飽くまでもケンタッキー・ダービーでいくつもりであるが、今回のシリーズは少し欲張ってアメリカ三冠レースの残り2つについても常に横に見ながら進めて行こうと思う。
 ついては、最初にそのアメリカ三冠レースのそれぞれの生い立ちについて簡単に触れ、続いてケンタッキー・ダービーが三冠レースでは一番遅く始まるので、残る 2 つのレースのケンタッキー・ダービーが開始される前の勝ち馬についても見ておくことにする。
 従って、実際に歴代ケンタッキー・ダービー馬の名前の意味について書き始めるのは 5 回目位からになるだろう。

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 アメリカ三冠レースとは
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 アメリカにおける三冠レースとは、ケンタッキー・ダービー(以降略す時は KD)、プリークネス・ステークス(同 PS)、ベルモント・ステークス(同 BS)を指す。それぞれのレースは 2001 年には以下のように開催された。

ケンタッキー・ダービー
 ケンタッキー州ルイヴィルのチャーチルダウンズ競馬場で 5 月第 1 週の土曜日(5 月 5 日)ダート 1 マイル 1/4(約 2,000m)の距離で施行

プリークネス・ステークス
 メリーランド州ボルチモアのピムリコ競馬場で 5 月第 3 週の土曜日(5 月 19 日)ダート1マイル 3/16(約 1,900m)の距離で施行

ベルモント・ステークス
 ニューヨーク州ニューヨークのベルモント競馬場で 6 月第 2 週の土曜日(6 月 9 日)ダート1マイル 1/2(約 2,400m)の距離で施行

 およそ 1 ヵ月で 3 レースやってしまうのだから、かなりの強行軍で、しかも距離的にかなり移動する。かつて知人から「日本に喩えるとどんな感じになるのか」と尋ねられて、札幌 - 淀 - 府中でやる感じと答えたことがある。
 プリークネス・ステークスが開かれるメリーランド州ボルチモアといってもピンと来ないかもしれないが、要するにワシントン郊外である。そういう意味で、馬産地 - 古都 - 経済の中心と転戦するイメージも合うし、移動距離も大体そんなものだ。これに西海岸や中西部から参加するというのは、ホンコンやシンガポールから遠征してくると思えば良いのであり、これまた距離がそんなものである。

 これは、イギリスや日本の三冠レースとはだいぶ違うというのが従来からの言い回しだが、実は NHK マイルカップになる前の NHK 杯をプリークネス・ステークスに見立てると、皐月賞− NHK 杯−日本ダービーは、開催される時間間隔も、レースの施行距離も、極めて近く、日本はイギリスの三冠ではなく、むしろアメリカに近いのではないのかと以前から思っていた。最近では距離こそマイルになったが GI を作ったことで、ますますこれに近づけようという意図があるのではないかと疑っている。
 ちなみに、地方競馬の南関東はすでに春に三冠という体系になった。

 そこで、皐月賞− NHK 杯−日本ダービーという 3 レースを全部勝った馬がいるかどうか調べてみたら、3 頭いたが、さて皆様はお分かりになるだろうか。
 昭和 28 年 NHK 杯が創設された最初の年に、ボストニアンがこれを達成、ついで昭和 46 年ヒカルイマイが、そして昭和 50 年カブラヤオーが 3 つのレースを全て勝っている。
 もちろんそれが三冠という性格ではなかったので、結果は偶然に過ぎず、またもしこれが三冠であったら、もっと他の馬も挑戦して勝ったかも知れないし、これらの馬は逆に勝てなかったのかもしれない。
 しかし、これらの馬たち、特にヒカルイマイとカブラヤオーがとりわけこの時期輝いていたのは確かで、「なるほどアメリカの三冠というのはそういうイメージのレースなのか」と、少しでも感覚的に近づいて頂ければと思って書いた次第である。

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 アメリカ三冠レースの始まり
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 三冠の始まりと言っても、それぞれのレースは全く個別に始まったものであり、この 3 つを取った馬を三冠馬と呼ぶようになるのはだいぶ後のことである。

 最初に創設されたのはベルモント・ステークスで、これは当時の大立者オーガスト・ベルモントの名前を取って付けられた。その第 1 回は 1867 年 ジェロームパーク Jerome Park の距離1マイル 5/8(約 2600m)左回りで行われている。

 ベルモント競馬場が完成して移るのは 1905 年のことで、しかもその時は右回りで走っていた。右回りの最後が 1920 年の Man o'War が勝った時で、翌年より現在のような左回りとなる。

 ただし距離については様々な変遷があり、この時は1マイル 3/8 の距離であった。それ以前は1マイル 1/8 から1マイル 5/8 の間、もちろん1マイル 1/2 というのもかなりあるが、いずれにしても何度も変わっており、1マイル 1/2 となって現在まで続くのは 1926 年の第 58 回からである。
 なお、1911 年 1912 年と 2 度中止になっているが、そのことについては、その該当年の辺りで触れることになろう。

 ちなみにベルモント・ステークスは、北米では現在 4 番目に古いステークスである。
 一番古いのは、現在キーンランドでフェニックス・ブリーダーズ・カップとして行われているフェニックス・ステークスで、1831 年に創設されている。
 続いてカナダのクイーンズ・プレードが 1860 年、3 番目は同じく 1860 年にサラトガでトラバース・ステークスが始まったが、こちらは途中中断がベルモントステークスよりも多いので、現在までの施行回数ではベルモント・ステークスの方が多くなった。

 プリークネス・ステークスのプリークネスというのは、実は馬の名前である。
  1868 年 8 月サラトガ開催の後、ユニオンホテルのディナーでは、2 年後の秋に 3 歳の大きなレースを創設することが話し合われた。場所は、メリーランド州知事の説得が功を奏して、有力候補だったニューヨークを押しのけ、ボルチモアと決まった。
 ピムリコというロンドンの地名に基づいた名前のコースは、すでに一応存在していたが、これを改装して本格的な競馬場とする。かくして 1870 年の秋、その開催決定のいきさつをレース名にしたディナーパーティー・ステークスが、賞金 18,500 ドル 2 マイルの距離で挙行された。
 この時、7頭立てのレースをデビュー戦で勝ったのが Preakness である。 Preakness はその後も活躍して、英国にわたり種牡馬となっている。

  Preakness というのは、インディアンの言葉で「鶉の森」を意味し、これをオーナーがステーブルの名前として使っていた。
 メリーランドのジョッキークラブは、この馬にちなんで春に 3 歳馬のレースを創設、これがプリークネス・ステークスとなった。
 もしも最初のディナーパーティー・ステークスがそのままの形で残っていたならば、イギリスに近い三冠の体系が生まれていたかも知れない。
 ディナーパーティー・ステークスは、ディキシー・ステークスとして形を変えて残り、現在ではプリークネス・ステークスの行われる日に、芝の GII レースとして組まれている。

 いずれにせよこうした経緯で、三冠で 2 番目のプリークネス・ステークスは 1873 年から始まる。ケンタッキー・ダービーよりも 2 年早いのだが、2001 年のケンタッキー・ダービーが 127 回で、プリークネスが 126 回だったのは、途中 3 年間のブランクがあるためである。

 実はメリーランドでは、創設の時の意気込みや熱狂は直に醒めてしまい、ついにはメリーランド・ジョッキークラブの解散と言う事態にいたって、1890 年から 1908 年の 19 年間、場所をニューヨークに移しており、1890 年には 3 歳だけでなく 4 歳以上にも開放され、その後 3 年間行われなかった。

 存亡の危機などというものではなく、実際にこの 19 年間のレースが正式にプリークネス・ステークスとして認知されるのはかなり後の 1948 年のこととなり、その間「失われたプリークネス」とも呼ばれていた時期があったというのが正しいのだ。

 このような経過を見ていると、むしろ今の三冠の一角として維持できていることの方が不思議なくらいであり、そこまで持ち直す努力は大変なものであったに違いない。

 さて、3 番目に登場するのがケンタッキー・ダービーである。
 ケンタッキー・ダービーはその歴史の長さにも拘わらず、中断も 1 度もなく、また開催場所も 1 度も変更されていないという希有な存在である。しかしだからといって全てが順調であったかというと、そうでもなくて、途中チャーチルダウンズ競馬場そのものが存亡の危機にあった時もある。
 とにかく伝統が確立していくのは、そう簡単な話ではない。

 ケンタッキー・ダービーはそもそも始まりからして、南北戦争で疲弊した南部とその競馬の立て直しという、ニューヨークなどの北部よりも厳しい条件の下にあった。

 ケンタッキーでの競馬再開を託されたメンバーの 1 人、当時弱冠 28 歳の若き M ルイスクラーク大佐は、チャーチルダウンズ競馬場を造ると同時に、3 つのイギリスの大レースを模倣したレースを作った。セントレジャーに匹敵するクラーク・ステークスと、オークス、ダービーに匹敵するケンタッキー・オークスとケンタッキー・ダービーである。

 ここでも、もしチャーチルダウンズの経営が上手く行っていたなら、イギリス式三冠レースが出来上がっていたかもしれない。だが、ケンタッキー・ダービーが今日の名声を完全に獲得するまでには紆余曲折もあり、結局クラーク・ステークスはクラーク・ハンデキャップとして今なおレースは続いているものの、条件は 3 歳以上 9 ハロンの GII レース(2001 年は 11 月 23 日施行)となっていて、これがイギリスのセントレジャーを模したものだったとは、現在ではおそらくほとんど気が付く人もいないだろう。

 バラのレイのケンタッキー・ダービー、マリーゴールドのプリークネス、カーネーションのベルモント、これらが始まってから今日の姿になるまでは、それぞれに実に長い道程であるが、勝ち馬の馬名を眺めながらゆっくりと歩を進めていくことにしよう。


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参考文献・資料・検索サイト・辞書
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Kentucky Derby 127th Run for the Roses (Kentucky Derby Souvenir Magazine, May 8th, 2001 The Bloodhorse)
126th Preakness (Souvenir Magazine, May 19th, 2001 The Bloodhorse)
133rd Belmont Stakes (Souvenir Magazine, June 9th, 2001 The Bloodhorse)
NYRA Year Book and Media Guide 1995 (New York Racing Association Inc 1995)
中央競馬レコードブック1999年版(中央競馬ピーアール・センター編 1995)
競馬学の冒険(山本一生著 毎日新聞社 1998年)
ケンタッキー・ダービー・ストーリーズ(ジム・ボラウス著 桧山三郎訳 山田俊一解説 荒地出版社 1996 年)

ケンタッキーダービー、プリークネスステークスについては、下記のチャーチルダウンズ及びピムリコ競馬場の URL に詳しく書かれている。ベルモントステークスは、ベルモントパークの URL にはほとんど何も書かれていないが一応参考までに挙げておく。
http://www.kentuckyderby.com/kderby/history/charts/
http://www.pimlico.com/preakness/index.html
http://www.nyra.com/Belmont/default.asp

下記の 2 つはサラブレッドの名馬について詳しく掲載されているサイトなので、
今のところ本文とは直接関係無いが参考までに挙げておく。
http://www.thoroughbredchampions.com/
http://www.tbheritage.com/

広辞苑(第 4 版 1991)/ 研究社 新英和(第 6 版 1994 1996)
新和英中辞典(第 4 版 1995 1996)
Electronic Thesaurus (INSO Corp 1987)Roget's II:
The New Thesaurus (Houghton Mifflin Co. 1980) < All in the IC Dictionary TR-9700 Seiko Instruments >