歴代イギリス・ダービー馬の名前の意味 (1970-1971) | |
1970年 Nijinsky ( c 父 Northern Dancer 母 Flaming Page ) Nijinsky とは、ロシア出身の Vaslav Nijinsky のことで、20世紀最高の男子バレーダンサーと目され、自ら振り付けもした人物である。 1890 年の生まれで 1907 年にデビュー、天才にありがちな様々なトラブルがあった後、1919 年に発狂により突然引退、現役はわずか 12 年間でしかなかった。 正にそれは、母親の名前にあるように Flaming Page(燃え盛るような1ページ)の時期と言えるだろう。英国、スイスで引退生活を送り、1950 年に 60 年の生涯を閉じた。 父親 Northern Dancer とは「北方の舞踏家」で、ここから Nijinsky の名前が取られたのは明白である。 Northern Dancer は、父母、特に母方の影響を受けた名前である。 父 Nearctic は、 Near + Arctic 、 すなわち北極地方の生物圏などを表わす言葉で、その父 Nearco から音だけ貰ってきたもの。 母親 Natalma は、単なる合成語で、 その父 Native Dancer と 母 Almahmoud のそれぞれの頭の数文字を繋いだもの。 Natalma の父親 Native Dancer は、父 Polynesian(ポリネシア人)と母 Geisha (芸者)の組み合わせで連想された名前で、その Geisha の父は、 Dicovery (発見)で母が Miyako (都)だから、日本の都で発見されるもので、 Geisha となった。 あるいは、日本のことに詳しい人の命名であれば、「都踊り」を知っていて、それで Geisha と付けた可能性もある。 Miyako の母は La Chica で、 Chica というのは単に「小さい」とか「娘」といった意味もある(フランス語の chic 、スペイン語の chico )が、「中米の原住民の舞踊」という意味もある。 さらにその母が La Grisette 、 その父 Roi Herod という繋がりで、興味深い話になるので、長くなるが説明を書いておく。 Roi Herode は、有名なヘロデ王のこと。ローマの命を受けてベツレヘムを治めていたが、メシア(救世主)、すなわちキリストが生まれたという噂が広まったので、生まれたばかりの男の赤ん坊を全部殺したという、聖書の中の悪人中の悪人である。 この人の娘がサロメで、ヘロデ王は、彼女の踊りの褒美に何でも望みを聞くといってしまったがために、サロメが要求した聖ヨハネの首を与えねばならず、ヨハネを殺してしまう。つまり、そのサロメと踊りの関係が伏流となって Geisha に繋がったのだろうと思うのである。 Roi Herode の娘である La Grisette の名前には、元の「ネズミ色の服またはそれを着た娘」という意味(言外には地味でこまめに働く娘という意味も)と、もう一つ別に、高級娼婦という意味がある。 そのいわれは、デュマ Dumas の小説『マーガレット Marguerite』 や ヴェルディ Verdi のオペラ『ヴィオレッタ Violetta』 の主人公のモデルになった女性から発している。彼女は6歳で孤児になり、工場などで一生懸命働きながら、すなわちねずみ色の服を着て稼いでいたが、年齢とともに美しさが増して、男が放っておかなくなり、ついに高級娼婦になったという。 このことから、この二つの相反するような意味があるのだそうだが、そのモデルになった人物のポートレートのことを書いた記述が残っていて、それによればデュマは、彼女の切れ長の光沢のある美しい目を「日本人の目」と表現したようだ。それで、これが Miyako -Geisha に受け継がれることになった。こうして踊りにまつわる快活な、あるいは妖艶な娘といったイメージが代々伝わってきたのである。 ところで、Natalma の母方 Almahmoud はどうかというと、これは母 Arbitrator のイニシャルと父 Mahmoud から、アラビア語の定冠詞 Al を付けて出来たこれも単なる造語だと思われる。 しかしながら、念の為に Almah という言葉を調べたら、アラビア語で 「学んだ」という意味で、それから派生して Alme という「エジプトの踊り子」という言葉があり、 Alma とも書く。 おまけに、生産者E・P・テイラー E.P.Taylor の母国カナダのケベックに Alma という町もあって、 Northern Dancer の子供には、 Alma North という馬までいる。 「あれま?」って洒落ている場合ではないが、ということは Alma という言葉の中にすでに、カナダの町で Northern エジプトの踊り子で Dancer という両方の意味が潜んでいたことになる。 テイラーがそのことを知っていたのかどうか定かではないが、 Northern Dancer という名前は、生まれるべくして生まれた、そうした運命の下にあったといえるのではないだろうか。 Nijinsky の母親 Falaming Page は、既に書いたように「燃えるような 1 ページ」だが、 Page には、「少年」とか「小姓」あるいは「見習い騎手」という意味もある。 この馬は牝馬だからこの意味ではないが、その父 Bull Page は以前から意味が良く分っていなくて、もしかするとこの意味から「有望な若手」ということなのかもしれない。 ちなみにその母 Our Page は、「我々の(ページに残された)記録」ということである。 Flaming の方の意味の繋がりは母方からで、遡ると Flaring Top「めらめら燃える先端」― Flaming Top「燃え上がる先端」― Firetop「火の(燃える)先端・頂上」と繋がっている。 Firetop は、両親が Man o' War 「軍艦」と Summit「頂上」という関係であるから、結局軍艦の大砲が火を放っているということになり、 Flaming Top は「戦果赫赫たる輝かしい1ページ」ということになろうか。 「おそらく最後の 3 冠馬」と言われているのが Nijinsky である。 Bahram 以来 35 年振りの達成で、同じく無敗で 3 冠を制したが、Nijinsky の方はその後 2 度 2 着に敗れて生涯無敗とはならなかった。 2 歳時は 5 戦 5 勝、内 4 回はアイルランドで、残る 1 回はイギリスで勝った。 翌年はアイルランドでの緒戦を勝ち、続く2000ギニーも楽勝して、当然1番人気でダービーを迎える。しかし、一部でスタミナ疑問説が流れ、オッズは 11-8(2.38 倍)と生涯唯一 2 倍を超えるものとなった。 11 頭という少頭数になり、ライヴァルとしては Sea-Bird の初年度産駒の Gyr 、 Stintino といったフランス勢と Approval が上げられていた。 タテナムコーナーに差し掛かったところで、先頭は Meadowville と Long Till 、続いて Gyr と Great Wall がいて、 Nijinsky は楽な感じで先頭集団に付いている。 残り 1 ハロン半と言うところで先頭は Gyr 、それに Great Wall 、Stintino 、Nijinsky が迫っている。残り1ハロンになって Nijinsky が抜け出し、 2 馬身半の差を付けて快勝、2 着 Gyr 、3 着 Stintino となった。タイム 2 分 34 秒 6 は、 Mahmoud の 1936 年の記録を破るレコードであった。 その後はアイルランド・ダービー、キングジョージ、セントレジャー、などを連勝したが、前述の通り、凱旋門賞とチャンピオン S で 2 度の敗戦を喫し、引退、アメリカのケンタッキーで種牡馬となった。 種牡馬としても、偉大なる父親 Northern Dancer に負けない素晴らしい成績を残し、ダービー馬だけでも Golden Fleece 、 Shahrastani 、Lammtarra(ラムタラ)の 3 頭を出して、1986 年リーディングサイヤーとなり、1992 年 4 月 15 日に死亡した。 リーディングの回数が案外少ないのは、父親との競争もある上、産駒が引っ張りだこで各地に散ってしまったこともあるのだろう。 日本では、持ち込みでクラシックに出られなかったが、生涯 8 戦無敗だったマルゼンスキーが、競走馬としてもまた種牡馬としても活躍した。 ------------------------------------------------------------------------ 1971年 Mill Reef ( c 父 Never Bend 母 Milan Mill ) Mill Reef は、アメリカの億万長者の実業家で、フィランスロピストとしても名高いオーナーのポール・メロンが、自らの冬用の別荘のある西インド諸島アンティグアの海岸線の名前から命名した。 意味としては、「粉の(ように白い)珊瑚礁」という意味である。 Mill は粉そのものであったり、粉引きの機械やそれを備えた風車や水車のことも指すが、動詞として「粉を引く」という意味があり、これはまた大変な労力をようする仕事だったので「困難を達成する・やり抜く」といった意味にもなる。 日本語では「身を粉にする(にして働く)」と言う表現があって、似たような意味になっているのが面白い。 一方 Reef の方は通常は「珊瑚礁」のことであるが、帆船などで「帆をたたむ、縮帆する」という意味があり、Mill Reef と続いた場合 Mill はロープや帆を巻き取る機械の意味にもとれ、メロンがアンティグアで大型のヨットに乗っていたとしたら、裏でこの意味を掛けている可能性もある。 父親は Never Bend で、意味は「決して曲げない、決して屈しない」ということである。これは 1954 年のダービー馬 Never Say Die に通じるものが有り、その父 Nasrullah 「神の勝利」も共通している。この「決して屈しない」が Mill の「やり抜く」の意味に繋がっている。 母親は Milan Mill で直接はこちらから Mill が継承された。意味は「ミラノの工場」という意味で良いと思うが、これもどうも表面だけではない感じがする。 その母親が Virginia Water で、これは多分メロンの所有する牧場がヴァージニアにあることと関係しているのであろう。意味としては「ヴァージニアの水または川」ということだから、ミラノの水車小屋(工場)と無関係でもないが、調べてみるとアメリカのイリノイ州のミシシッピ川流域に Red Shoulder Hawk「赤肩鷹?」という種類の鷹の生息地があって、それが Milan (または Milan Bottom) から Mill Creek にかけての地域らしく Milan/Mill という表現もされている。ヴァージニアとミラノよりも、アメリカ内の地名同士の方が関連が深いように思うが如何であろうか。 Mill Reef はアメリカ産馬でイギリス調教馬、2 歳時には 6 戦 5 勝して 2 着が 1 回という準パーフェクトの成績で終え、翌年も緒戦を勝って迎えたのが2000ギニーである。 これまでの戦績から 1 番人気であったが、この時 3 番人気ながら無敗で出走してきた馬がいて、実はこの馬に敗れてしまう。それが Brigadier Gerard で、以来両陣営はお互いをライヴァルと見てファンも再戦を望んだ。 結果から先に言えば、両者は遂に対戦を果たせないで終わるのだが、 Mill Reef はこの後 1 度も負けることなく、生涯 14 戦 12 勝の成績を残し、 Brigadier Gerard は、生涯 18 戦して翌年のダービー馬 Roberto に逃げ切られた唯一の敗戦以外全勝の 17 勝という記録を残す。 再戦の機会は皆無ではなかったが、距離の問題やアクシデントがこれを拒んでしまう。これだけの馬が同じ年に誕生して、しかもお互いに戦う意志を見せながら、対戦が 1 度しかなかったというのは何という運命の悪戯であろうか。山本一生氏は、「競馬学への招待」の中でライヴァル物語として、たった 1 度しか対戦しなかった 2 頭の名馬の話を取り上げているし、原田俊治氏は「新・世界の名馬」で、前年の Nijinsky も含めた 3 頭をそれぞれ 1 章づつさいて書いておられるので、詳しくはそちらをお読みいただきたい。 Brigadier Gerard が、エプソムの 2400m は距離的に無理と判断、ダービーを回避したが、Mill Reef にも距離の不安説が出た。 父親 Never Bend は 2000m 以上のレースで勝ったことがなく、産駒はイギリスで今まで走ったことがなかったからである。しかし、ブックメーカーもファンも大丈夫と判断したのであろう、100-30(4.3 倍)の 1 番人気に押された。 2 番人気は Bourbon というフランス馬であったが、パドックで入れ込み、入場の際には何度も後ろ足で立ち上がる、馬ロクを 2 度も切ってしまう、という状況で、馬ロクは取り替えられたが、スタートまで騎馬警官に付き添われて移動した。 暖かな明るい日で、21 頭がスタートした。3 ハロンを過ぎたところで Linden Tree が先頭を奪うと、そのままの態勢が直線まで続いていく。 後ろに付けているのは Homeric 、Lombardo と Mill Reef である。 残り 2 ハロンとなってまだ Linden Tree が粘っており、むしろ Homeric が疲れて後退、続いて Lombardo も後退気味である。 Mill Reef は粘りに粘る Linden Tree を残り 1 ハロンで捉えると、2 馬身突き放して勝った。 2 着は Linden Tree 3 着に後方から伸びてきた Irish Ball が入った。 その後、キングジョージや凱旋門賞も制して、翌年もコロネーションカップ等に勝ったが、感染症にかかり引退となった。 イギリスで種牡馬となり、Shirley Heights がダービーに勝った 1978 年、Reference Point がダービーに勝った 1987 年に、ともにリーディングサイヤーとなっている。1986 年 2 月 2 日に前年に患った心臓疾患がもとで死亡。 Mill Reef の子供たちは数多く日本に入っており、一々書いているときりがないが、日本のリーディングサイヤーになり、ロッキータイガーやイナリワンを出した Mill George(ミルジョージ)と、ミホノブルボン・エルプスを出した Magnitude(マグニチュード)、タケノベルベットを出した Pas de Seul(パドスール)の 3 頭が、産駒から GI 馬を出しているので挙げておく。 この年のダービー出走馬はかなり日本に輸入されている。 2 着の Linden Tree (リンデントリー)は、最初フランスで供用された後、 76 年から日本に来ている。実はこの馬の名前は、全く私の記憶になかった。たいていは「そういえばそんな馬もいたかもしれない」位は思うのだが、代表産駒の名前はスダゼット、ホクトギャラン、と「サラブレッド血統事典」にあって、さてどんな馬たちであったか思い出せない。 3 着 Irish Ball(アイリッシュボール)は、 75 年から 90 年まで供用、あまり成功しなかった。 4 着 Lombardo(ロンバード)は、 74 年から 88 年まで供用、メジロファントムなどを出している。 8 着になった Zug(ズグ)は、72 年から 86 年供用、これも大きな成功にはならなかった。 なお、原田俊治氏が 19 着の Dapper Dan を輸入種牡馬とされているが、「サラブレッド・血統事典」では輸入されたダッパーダンは 62 年アメリカの生れとなっている。他の資料を見てもそうなので、これは同名異馬を原田氏が勘違いされたものと思うが、それほどポピュラーでない名前であり、生年も遠くないので、かなり紛らわしい馬であることは確かだ。 この他、2 歳で Mill Reef に土を付け、2000ギニーで 3 着だった My Swallow(マイスワロー)が、 78 年から供用され、2000ギニー 4 着で、 Nijinsky の全弟である Minsky(ミンスキー)は、 74 年から供用されて 77 年に死亡した。 ------------------------------------------------------------------------ 訂正・追加等 ------------------------------------------------------------------------ 1960 年に一旦は先頭に立ち最終的には 4 着だった Auroy(オーロイ)は、 1961 年から日本で種牡馬として供用され、75 年に引退している。成功したとは言えないが、稀代の癖馬として知られ、天皇賞・有馬記念に勝ったカブトシローを出した。 1967 年 Royal Palace の文章に添付した Bold Lad の補足は、「、」(読点)の場所を間違えてしまった。「(*) Bold Lad (IRE) はアメリカ産で、日本に種牡馬として来た...」とあるのは、「(*) Bold Lad (IRE) は、アメリカ産で日本に種牡馬として来た...」が正しく、意味が逆転している。 1969 年 Blakeney の母親 Windmill Girl の記述で、「 Windmill Girl「水車小屋の娘」はシューベルトの歌曲集の題名である。」というのは明らかな間違い。Windmill Girl ならば「風車小屋の娘」であり、「シューベルトの歌曲集「美しき水車小屋の娘」を意識して付けた名前である」とするべきであった。 ------------------------------ <編集部註> Bold Lad に関する間違いは、編集段階での間違いでした。 おわびもうしあげます。 |
|
------------------------------------------------------------ 参考文献・資料・検索サイト・辞書 ------------------------------------------------------------ |
|
http://www.onelook.com/ http://www.britannica.com http://www.infoplease.com http://www.bibliomania.com http://www.altavista.com http://www.dictionary.com 「広辞苑 / 研究社新英和・新和英中辞典」( IC Dictionary TR- 9700 Seiko Instruments 1998) 「The Derby Stakes 1780-1997」( Michael Church, Racing Post 1997 ) 「伝説の名馬 I 〜 IV 」(山野浩一著、中央競馬ピーアールセンター 1993〜1997) 「競馬学への招待」(山本一生著、ちくま新書049 筑摩書房 1995) 「名馬の生産」(エイブラハム・S・ヒューイット著、佐藤正人訳、サラブレッド血統センター 1985) 「新・世界の名馬」(原田俊治著、サラブレッド血統センター 1993) 「20世紀の種牡馬体系」(早野仁著、競馬通信社 2000) 「サラブレッド血統事典」(山野浩一/吉沢譲治編著、二見書房 1996) 「Thoroughbred Champions: Top 100 Racehorses of the 20th Century 」(The Bloodhorse 2000) 「The Names They Give Them」(Compiled by J. B. Faulconer ・ Edited by Jim & Suzanne Bolus 、1998) Bloodhorse 誌選定、米国における「20世紀のトップ100サラブレッド」その馬名について(サラブレッド・オリジナル・プロジェクト(森本健)、競馬通信社掲示板等で連載したもの 2000-2001) http://www.keiba-tsushin.co.jp/top/top.html |