第2回 サムライ Samourai

 横浜・根岸競馬場の第 1 回開催は、1867(慶応 3)年 1 月であった。
 幕府が費用を負担して設置したコースは、1 周約 1700 mの芝生、使用権は、居留民を代表する競馬クラブに委託するという外交協定を受けて、1866 年 7 月、ヨコハマ・レース・クラブが結成された。
 そのクラブの中心的役割を果たしていたのが、第 1 回で紹介したバタヴィアの所有者のルドルフ・リンダウである。

 そのリンダウが、根岸競馬場開催に向けて情熱を傾けて調教していた馬がいた。サムライ Samourai 、青毛 black 、在来の日本馬であった。
 記念すべき第 1 回開催初日、第 1 レースの新馬戦に登場、そこでは勝てなかったが、翌年からは期待に違わない活躍を見せ、競走馬と呼ぶにふさわしい日本馬の第一号となる。

 サムライがはじめて注目されたのは、1867 年 5 月に行われた根岸競馬場の第2回目の開催での、婦人財嚢 Ladies'Purse の勝利だった。
 このレースは、婦人たちが賞金を寄付、馬主が騎乗して競い、勝者が婦人から財嚢を授与されるというもので、その勝利は開催の中で最も名誉なものとして讃えられていた。
 前年の 1866 年、世界的な不況が起こり、アジアの大商社であったデント商会などが倒産する。横浜も打撃を受け、リンダウの商会もその余波から、1867 年には破産の憂き目にあっていた。
 婦人財嚢の獲得は、いくらかは失意のリンダウの慰めとなったかも知れない。

 同年 11 月の秋季開催は、調教で足元を悪くして休養したが、翌 1868 年 5 月 7 、8 日の春季開催では、いきなり本格化した圧倒的な強さを見せつける。
 この間、時代は明治新政府の樹立から戊申戦争へと展開、「官軍」と「幕府軍」が周辺を行き交い、横浜も緊張感につつまれたが、そういった状況だからこそ、なおさら競馬は歓迎されていた。

 サムライは、初日の日本馬のチャンピオン戦を皮切りに、二日目の基幹レースを二つとも制する。
  1 マイルを 2 分 33 秒、2 マイルを 5 分 6 秒という時計だけを見ると、今からは信じられないくらい遅いものだが、当時にあっては、サムライの強さは、人々を魅了するほどのものだった。

 当時の競馬に出走していた日本馬も中国馬も、体高が 130 cm 前後のポニーであり、アラブやサラブレッドのレースとは全く異なるものであった。
 かつて、朝日テレビ系列で放映されていた「さんまの何でもダービー」のポニー競走を思い起こしてもらえれば、当時の競馬の姿が想像できると思う。その中での強さではあったが、競馬は競馬であった。

 日本馬は気性が荒くて、むやみやたらに走るのが普通だったので、中国の競馬で調教を施されていた中国馬には、これまで全く歯が立っていなかった。
 ところが、サムライは、二日目の日本馬と中国馬の混合戦で、その常識を打ち破る偉業を成し遂げる。

 日本馬の中だけなら、競走馬も少なかったから、少し能力が抜けていれば勝ち続けることは容易だったが、中国馬を破ったというのであれば、その強さはホンモノであった。
 しかも、サムライの勝鞍の 4 レースとも、相手馬が、それまでの開催で勝利をあげていた得意の距離だったので、勝鞍を重ねる毎に、人々の賞賛の声は高まっていったという。

 唯一の敗戦だったレースも、優勝馬のファールではないかとの審議が長く続いたもので、三日目に行われたマッチレースでは、その馬にきっちりと借りを返している。
 これほど戦績だったので、それまでの横浜の競馬における日本馬最強の評価を受けたのも当然だった。

  1868 年秋季開催は記録を欠いているが、次の年の春季開催の成績からみても、サムライが活躍したことはまちがいがないだろう。
 なお 1868 年のクリスマスには、野外障害競技として、かつての競馬場でもあった鉄砲場 Rifle Range を出発点に、根岸競馬場をゴールとして行われたペーパーハント Paper Hunt が行われる。ここでもサムライは、スタミナを発揮して勝利していた。
 ペーパーハントは、英国で「上流社会」の遊びとして人気のあった狐狩りを真似たもので、散布された紙片を狐に見立てて追走するものだった。横浜でも盛んに行われていたが、田畑を荒らされる地元民との紛糾の種ともなっていた。

 サムライは、 1869 年 5 月 6 、7 、8 日の春季開催でも、最強馬の実力をいかんなく発揮する。
 初日、二日目の日本馬相手のレースでは全くの楽勝、そして三日目に行われた日本馬と中国馬による、その開催のすべての勝馬によるチャンピオン決定戦にも勝ち、3 戦 3 勝の完璧な成績を収め、押しも押されもしない根岸競馬場の王者の座についた。

 なお、サムライの馬主であったリンダウは、1868 年の秋季開催後、その厩舎 White & Black Stable を解散し、1869 年 2 月に惜しまれながら横浜を去っていたので、この春季開催みおける名義は、英国駐屯軍将校のリー Lee に移っていた。
 サムライは、初日に組まれていた日本馬のチャンピオン戦には出走してこなかった。所属部隊の離日が予定されていたからである。同一馬主で 2 開催連続勝利すれば、チャンピオン戦のカップを獲得するという規定があったが、それを前にリーは出走を取り消す。もし出走していたら、確実に勝っていただろう。

  1869 年 10 月の秋季開催、サムライの名義は競売業のワレス T.Wallace に移っていた。ワレスは、競馬に情熱を傾けていたから、なんとしてでもサムライは入手したかったのだろう。
 この開催の日本馬のチャンピオン戦は、道中最後方から行ってゴール寸前で交わすという余裕のレースで勝ったが、前の 2 開催とは異なり、中国馬との混合戦では 2 着に終わってしまう。輸入される中国馬の質は上がっていたのである。

 そして翌 1870 年のシーズンもやはり、中国馬のチャンピオン・クラスにはかなわず、日本馬のチャンピオン戦でも、春季開催ではモクテズマ Moctezuma という新鋭の前に敗れ、連勝は途絶えてしまう。
 もっともそのレースでは、出遅れが応えたようで、秋季には再びチャンピオンの座につき、その他のレースでも楽勝し、まだ日本馬の第一人者としての地位は譲ってはいなかった。

 また障害戦にも登場し、春季は勝鞍をあげるが、秋季は 3 倍の本命だったものの、飛越を拒否し、賭けに波乱をもたらす。
 当時の競走馬は、日本馬も中国馬も日常の乗馬にも使用されたいた。障害戦は、その乗馬に適する馬を選定するという実用的な役割をもって実施されており、「一流馬」がそこに登場しても何ら不思議ではなかった。

  1871 年のシーズン。5 月 10 、11 、12 日の春季開催でサムライは、初日、二日目の一般戦では、重いハンデをものともせず楽勝し 、2 勝をあげていた。しかし、初日の日本馬のチャンピオン戦、二日目の婦人財嚢という重要なレースでは、ともにモクテズマの 2 着になってしまう。
 モクテズマが一段と成長し、日本馬の中にあってもサムライの座は揺らぎ始めていた。

 次の 11 月 8 、9 、10 日の秋季開催は、それを如実に示すことになった。
 日本馬のチャンピオン戦は、モクテズマとのマッチレースとなったが、全く歯が立たず、以前だったら楽勝していたようなレースにまでも、敗戦を喫してしまう。
 それにこの開催では、モクテズマだけでなく、タイフーン Typhoon という馬が、将来の活躍を予感させるようなデビューを飾っている。サムライも、デビュー以来 5 年目を迎えて峠を越し、新旧世代の交代の時期に入っていたのだろう。
 この年には廃藩置県が断行され、時代も文明開化の中を走りはじめていた。

 もはやサムライの衰えは明白だった。
 翌年 1872 年 5 月の春季開催では、ようやく三日目の今開催未勝利馬戦を、クビ差で勝つという成績に終わる。
 それに、クラブが中国馬を優先するレース編成を行ったことで、サムライの出走レースも、その後は制限されてしまうことになった。これが、いい潮時だったかも知れない。この開催を最後に、サムライの引退が決断された。

 サムライは、根岸競馬場の誕生と同時に登場した最初の競走馬らしい日本馬で、そのスターの第一号ともなっていた。 1868 〜 69 年の絶頂期には、短距離から長距離までをこなし、中国馬にも勝つなどの圧倒的な能力を示した。
 引退後、それにふさわしくサムライが、種牡馬になったという証言が残されているが、もちろん現在にその血脈を見ることはできない。


 生涯成績 35戦22勝

[判明分の戦績]
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 1867年
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1月11日
Griffin Plate (jp)
         3頭立−2着       勝馬 Podosokus
Hopeful Stakes(jp)
        10頭立−1着       2着 East Norfolk

1月12日
     不出走
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5月6日
Selling Stakes(jp)  50 ドル
             2着 勝馬 Thady O'Grady

5月7日
Ladies'Purse(jp)  1/2 マイル
         6頭立−1着      2着 Podosokus
Handicap Plate(ap)  100 ドル  1 周1 dis
         4頭立−3着      勝馬 Faugh a Ballagh
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秋季開催
     不出走

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 1868年
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5月7日
Ladiea'Purse(jp)  1/2 マイル 
         5頭立−2着 1分5秒  勝馬 Antelope
Niphon Champion Plate(jp) 賞金 300 ドル  1 マイル
         5頭立−1着 2分33秒 2着 John Peel

5月8日
Stand Cup(jp)  100 ドル
         4頭立−1着 5分6秒 2着 Hamlet
Akindo Plate(jp)  1 周
         4頭立−1着      2着 Thady O'Grady
Yokohama Handicap(ap)  100 ドル  1/2 マイル
         8頭立−1着 1分5秒 2着 Rose Daimond

5月9日
Match Race  1/2 マイル 勝利       2着 Antelope
Match Race  1/2 マイル 勝利       2着 Quifah
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秋季開催
     記録欠

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 1869年
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5月6日
New Comers'Cup(jp)  1&1/2 マイル
         4頭立−1着 4分13秒 2着 Nobody's Child

5月7日
Stand Cup(jp)  100 ドル  2 マイル
         3頭立−1着 5分26秒 2着 Glenlivat

5月8日
Steward's Plate(ap)  1&1/4 マイル
         8頭立−1着       2着 Flatcather
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10月18日
German Cup(jp)  250 ドル  3/4 マイル
         6頭立−1着 1分55秒 2着 Paddy Whack

10月19日
Nippon Champion Plate(p)  200 ドル  1 マイル
         6頭立−1着 2分35秒 2着 Thady O'Grady

10月20日
Welter Plate(ap)  125 ドル  1 周 1dis   傷害戦
             2着       勝馬 Rose Diamond

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 1870年
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5月26日
Nippon Champion Plate(jp)  125 ドル  1 マイル
         5頭立−2着       勝馬 Moctezuma

5月27日
Stand Cup(jp)  125 ドル  1&3/4 マイル
         4頭立−1着       2着 Torpedo

5月28日
Welter Plate(ap)  100 ドル  1 周 1dis
             1着       2着 Torpedo
Champion Cup(ap)  1&1/4 マイル
         4頭立−2着       勝馬 SouthernCross
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11月8日
Nippon Champion Plate(ap)  150 ドル  1 マイル
         5頭立−1着       2着 Paddy Whack

11月9日
Stand Cup(jp)  2 マイル
         3頭立−1着       2着 Thady O'Grady

11月10日
Garrison Cup(ap)  1 周 1dis   障害戦
          飛越拒否        勝馬 Thady O'Grady


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 1871年
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5月10日
Nippon Champion Plate(jp)  150 ドル  1 マイル
         5頭立−2着       勝馬 Moctezuma
Farewell Cup(jp)  1 周 1dis
         2頭立−1着       2着 Paddy Whack

5月11日
German Cup(jp)  3/4 マイル
         4頭立−1着 1分41秒 2着 Paddy Whack
Ladies'Purse(jp)  1/2 マイル
         6頭立−2着       勝馬 Moctezuma
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11月8日
Nippon Champion Plate(jp)  1 マイル
         2頭立−1着       2着 Moctezuma
Farewell Cup(jp)  1 周 1/4
         2頭立−1着       2着 Paddy Whack
11月9日
Ledger Cup(jp)  1/2 マイル
         5頭立−3着       勝馬 Paddy Whack
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 1872年
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5月8日
Nippon Champion Plate(jp)  150 ドル  1 マイル
             3着       勝馬 Gin Yen

5月9日
American Cup(jp)  300 ドル  3/4 マイル
             3着       勝馬 Typhoon

5月10日
Solace Cup(jp)  100 ドル  1 周 1dis
         6頭立−1着       2着 Disley

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jp=japan(日本馬)
pony,ap=japan pony & china pony(日本ポニー&中国ポニー)
距離の 1 周は約 1700 m、1dis(distance)=約 100 m