第6回 鎌倉(前編)
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1879(明治12)年11月の共同競馬会社(戸山競馬場)の開催を機に、競馬は新たな段階に入り、明治政府の馬事振興策の中心を占めるようになっていく。 翌年5月からは、三田興農競馬会社(三田競馬場)が開催を始めただけでなく、吹上御苑馬場でも、陸軍将校や宮内省の官吏、あるいは華族の競馬会が、定期的に開催されるようになった。 また、1870(明治3)年から開始されていた陸軍主催の春秋二回の招魂社(靖国神社)競馬が、そこに加わる形ともなっていた。 靖国や吹上は、戸山や三田の競馬の能力検査的意味をもち、さらにこの日本側の競馬で活躍した馬は、横浜のニッポン・レース・クラブ(根岸競馬場)の開催にも登場していく。 なお1882年までは、居留民名義の馬は、日本側主催の競馬開催には出走できなかった。 日本側名義の在来の日本馬が初めて根岸競馬場に姿を現したのは、1875(明治8)年秋。だがしばらくは、居留民が所有している馬にほとんど勝つことができなかった。育成、調教、騎乗技術が劣っていたことが、その大きな要因だった。 この状況が、1881(明治 14 年)春のシーズン頃から、新たな馬たちの登場によって変わろうとする。 まず、鎌倉だった。 雷(イカズチ)、岩川、勝鯨波(カチドキ)といったライバルたちと戦い、時には負けることもあったが、明治10年代半ばの競馬における日本馬の主役となる。 鎌倉は、青毛、4尺5寸7分(約138.5cm)、南部産。名義は、藤崎忠貞。藤崎は、千葉県印旛郡九能村の裕福な酒造業者で、内務省勧農局下総種畜場(後の下総御料牧場)に勤務したことがあった。 5歳の1881(明治14年)春のシーズンに根岸競馬場でデビューし、下総種畜場の吉川勝江が騎手を務める。なお、当時の馬齢は満年齢だった。 鎌倉は、1883(明治16)年8月3日に、残念なことに急死する。藤崎は、その蹄跡を後世に残すために、千葉県富里町に石碑を建て、鎌倉の死を悼んだ。この石碑は現存している。 鎌倉の評判はデビュー前から高かった。 初出走となった1881(明治14)年5月のニッポン・レース・クラブの春季開催は、それに応えるものとなる。 まず、根幹レースであった初日・新馬戦を楽勝し、ついで二日目のレースでも、直線を一気に駆け抜けて、かなりの好タイムで勝った。三日目の日本馬のチャンピオン戦では、居留民所有の強豪馬から1馬身半差の2着に終わるが、気難しさを見せながらも追い込んだ姿は、強烈な印象を与える。 居留民たちは、この鎌倉の出現を日本馬の改良の証とし、今後はチャンピオンとして、確実に横浜の旧勢力を凌駕していくものと見込んだほどだった。 根岸に続く、戸山、三田の開催では、居留民の馬が出走してこなければ、鎌倉の相手はなく、それぞれ2勝、3勝を加える。 足元の故障から、1880年秋のシーズンを休んでいた古豪の雷も、この二場で計5勝をあげ、復活していた。 雷は、黒鹿毛、4尺7寸3分(約143.3cm)、南部産、宮内省御厩課の所有。戸山競馬場では、1879年8月に行われたグラント前アメリ大統領歓待競馬や、同年12月と翌年4月の共同競馬会社の開催でも勝利を重ねる。 当時の競走馬は、宮内省御厩課、内務省勧農局(この1881年4月からは農商務省)、陸軍省軍馬局が供給源で、雷は御厩課の代表馬だった。 次の1881年秋のシーズン。 11月の根岸では、鎌倉と雷の両馬は居留民の馬に負け、雷が3戦1勝、鎌倉は4戦1勝に終わった。 両馬がともに出走したチャンピオン戦を含め、3戦での着順は雷が鎌倉を上回っていたから、芝では雷の方が適性があったようである。 鎌倉は、期待を裏切る形となった。 根岸から2週間後に行われた戸山の開催でも、鎌倉と雷の強さが抜けていた。 鎌倉は二日間のレースで、雷との直接対決の3戦をも含めて、5戦5勝の戦績を収め、雷は4戦1勝だったものの、残りは総て鎌倉の2着だった。 それまでの雷は、戸山競馬場を得意としていたから、ここでの完敗は、土のコースでの鎌倉の強さを印象づけた。 それから1週間後の三田の開催では、鎌倉は初日2勝、三日目はチャンピオン戦や重いトップハンデを科せられたレースも含めて3戦して3勝し、土のコースの戸山と三田では、無敵を誇る存在となった。 雷は、鎌倉との対戦を避けたが、それでも二日目に1勝をあげたのみにとどまる。その後左足を故障して、再起できなかったから、この開催が、最後の出走となった。 雷を最後として、当分の間は、宮内省の日本馬からは活躍馬が出てこなくなる。日本馬の牝馬に、西洋種の牡馬を配合した雑種馬に、力を入れていたからである。 この開催では、後に鎌倉の跡を継ぎ最強馬の名を欲しいままにする岩川が、初日に勝鞍をあげていた。 岩川は、栃栗毛、4尺8寸(約145.4cm)、勧農局所員の名義で、この秋のシーズンがデビューだった。この岩川については、稿を改めて紹介する。 明けて1882(明治 15)年春のシーズン。 鎌倉は体調を崩し、5月の根岸の春季開催には姿を見せなかった。それから3週間後の戸山の開催には出走してきたが、よほどの不調で、2戦とも2着に終わり、生涯唯一の未勝利に終わる開催となった。 一方、前年の秋シーズンに名を出していた岩川は、この開催で2勝し、鎌倉のライバルとして名乗りをあげる。 戸山から2週間後には、三田の6月開催が行われ、早速、初日の第3レース、農商務省農務局賞典で、鎌倉と岩川は、カタフェルト Caterfelto という馬を加えて、接戦を展開する。 カタフェルトは短距離が得意な、いわば名脇役の馬で、当時の有力馬主、馬車製造業の大西富五郎名義の馬だった。 このレースの描写がつぎのように残されている。 「孰(いず)れも一粒撰の駿馬にてありければ、観客は、此れこそ今日の晴れ勝負、如何あらんと瞳を凝らして見てあるに、三馬は流石に競馬馴れしことなれば、少もわろびれたる模様なく、指令と共に駈け出せしが、如何なしけん、岩川は一歩後れて駈け始めたれば、アナヤと思う間に、馬場の三分程に至りし時は、鎌倉が真先に立ち、カタフェルト之れに次ぎ、岩川又た之れに次ぎて、両馬に後れたる四間余もありしにぞ。人々は、第一こそ鎌倉にて、第二がカタフェルトと憶断して、殆んど両馬にのみ目を注ぎ、岩川は恰かも無きもの同然なりければ、予て岩川を愛する人は歯がみをなして悔みし程に、岩川の乗手は、コハ仕損じたり適わじと、術を尽して励ましければ、其勢以前に変りて次第に烈しく、砂煙を蹴立てて飛び行く様は、射る矢も及ばぬ程にして、早や馬場の六分に達せしと思う頃、終に難なくカタフェルトを乗越したれば、観客は意外に出てたることなれば、誰れとて驚かざるはなく、喝采の声四方に湧きたり。扨も岩川は一頭を乗越したるに勢付き、今ま一馬だに打越さば、最早我こそ第一なれと、乗手が一心に駈りたれば、双馬均しく竝びし頃、早くも勝負の場となりたりし。曳と一気を得て打ち入たる鞭に、岩川は遂に鎌倉をも乗越して、天晴れ第一の勝を得て、万敗の内に全利を占めたるし。最とど勇ましく覚えたり。去れば岩川も農務局より賞金を受けたりし。」 (『東京横浜毎日新聞』明治15年6月11日) このように、出遅れた岩川は後ろからいって追い込み、後の姿を予感させるような強い勝ち方をみせていた。岩川は、このほかに1勝を加えている。 鎌倉は、次の第4レースの宮内省賞典では勝ち、ついで二日目のチャンピオン戦で岩川との再戦を迎える。今度は鎌倉が出遅れたが、その不利をものともせず岩川を破り、きっちりと雪辱を果たす。 不調の中で2勝をあげたのは、さすがとはいえ、鎌倉としては物足りない成績であった。 しかしつぎの秋のシーズンでは、根岸でもデビュー時の期待に応える圧倒的な強さを見せることになる。 関係年表 ----------------------------------------------------------------------- 1879(明治12)年7月 戸山競馬場(現・東京都新宿区)竣工 8月 戸山競馬場でグラント前アメリカ大統領歓待競馬 明治天皇臨幸 11月 共同競馬会社設立 共同競馬会社主催第1回開催:戸山競馬場 以後、1884年4月まで春秋開催 三田競馬場(現・東京都港区)竣工 1880(明治13)年4月 ニッポン・レース・クラブ設立。皇族を名誉役員、 日本政府首脳と駐日各国大使領事、居留民が内外 同数で役員。会頭には英国公使が就任するのが慣 例。宮内省、陸軍省、内務省(明治14年からは 農商務省)が、資金、馬の供給面でもバックアッ プ。 5月 三田興農競馬会社設立、第1回開催:三田競馬場 以後、1885年11月まで春秋開催。 陸軍将校、近衛将校、宮内省官吏らによる競馬会 が吹上御苑馬場で始まる。また華族競馬会も同馬 場で始まる。双方の競馬会とも、しばしば天覧で あった。 6月 ニッポン・レース・クラブ主催第1回開催:根岸 競馬場(現・横浜市中区)。天皇賞の起源となる Mikado's Vase競走実施(以後恒例)。 1881(明治14)年5月 明治天皇、根岸競馬場へ臨幸。以後、明治16年 までは、ニッポン・レース・クラブ、共同競馬会 社、三田興農競馬会社の開催へは、臨幸が原則と なる。 1883(明治16)年6月 共同競馬会社、三田興農競馬会社の開催に居留民 名義の競走馬が出走可能となる。 1884(明治17)年8月 乗馬飼養令(官吏に乗馬飼養を義務づけたもの) 10月 上野・不忍池競馬場竣工 11月 共同競馬会社、不忍池競馬場で初めての開催。明 治天皇臨幸。 |