第11回 雑種馬の登場

 今回からしばらくは、鹿鳴館時代の競馬で活躍した雑種馬 half-bred の蹄跡を追っていく。
 雑種馬とは、在来種の日本馬の牝馬に、トロッター、アラブ、サラブレッドなどの洋種の牡馬を配合して生産された馬たちのことである。

 内務省勧農局、陸軍省、開拓使などの政府機関、一部の民間牧場が、その生産に着手したのは、1871、2(明治4、5)年のことであった。
 時は「文明開化」の幕開け、人間の方も、丁髷を切り、洋服を着て、靴を履き、歩き方や顔の表情を変えようとし始めていた。身体のあり様は、「日本の近代化」そのものの問題を形成していたが、雑種馬は、その馬版にあたっていた。

 雑種馬が、初めて公式に横浜の根岸競馬に出走したのは、1877(明治10)年の秋のシーズンのことだった。第一世代はそのとき、5歳前後となっていた。
 前年から横浜の競馬クラブは、ヨコハマ・レース・クラブとヨコハマ・レーシング・アソシエーションの二つに分裂していて、雑種馬は、その双方のクラブの開催に登場する。
 当時の日本馬は、首が短くてしかも太く、体高も130a前後だったが、雑種馬の馬体はそれとは明らかに異なり、走りの軽快さも持ち合わせていた。アラブやサラブレッドを見慣れていた居留民たちの目には、雑種馬は、日本側が取り組み始めていた馬匹改良の成果の証として映ったことだろう。

 このシーズンにデビューした雑種馬の中で、最も評判の高かった馬が、ヨコハマ・レース・クラブの開催に出走したイチロク Ichiroku だった。芦毛 grey 馬で、一六勝負の「いちろく」にちなんで付けられたのだろう。
 1867(慶応3)年には、フランス皇帝ナポレオン三世から徳川幕府に、アラブ馬26頭が寄贈されているが、イチロクはその中の1頭を父に、南部産の日本馬を母に、1872年に生まれていて、このときは満5歳となっていた。

 ナポレオン三世から寄贈されたアラブ馬の血脈は、明治の競馬の中に受け継がれて、イチロクはその第一号となる。ただ、その貴重な血脈にも関わらず、当時としては珍しく去勢されていたことからすると、余程気性が荒かったのであろう。
 名義は、東アジア最大の商会であるジャーディン・マセソン商会の横浜支配人、 J.J.ケスウィック Keswick(仮定名称ジョン・ピール John Peel)だった。

 当時の競馬は、中国馬、日本馬、その混合戦の三本立てで行われていたが、この開催では、雑種馬は日本馬に種別されて出走した。

 初日、基幹レースであった新馬戦 Griffins' Plate(距離5ハロン)は、イチ
ロクの前評判が高く、2頭立のレースとなる。イチロクは期待通りに、1分23
秒1/2で楽勝したものの、気性の悪さは解消されてはいなかった。

 二日目には、当時の最大の重賞である三菱挑戦賞盃 Mitsu-Bishi Challenge Cup と、もうひとつ別のレースに出走する。しかし、今度は気性難が出て、両レースとも直線に入ってバカついてしまい、ともに3着に終わってしまう。まともに走っていたら、誰の目から見ても、楽勝のケースであった。

 三日目には、開催の勝馬によるチャンピオン戦 Nippon Handicap 、距離約1700m、5頭立のレースに出走し、2馬身差をつけ、2分19秒1/2で勝って、チャンピオンの座についた。
 だが、この直後の中国馬との混合の3ハロンの短距離戦では、出遅れが致命傷となり、中国馬の快速馬の前に着外となる。

 5戦2勝と物足りない成績ではあったが、その能力は誰しもが認めるところで、イチロクの将来には最大級の期待がかけられる。
 しかし残念なことに、その後故障してしまい、立ち直ることはなかった。

 イチロクに続いて期待されたのが、翌1878(明治11)年の春のシーズンにデビューしたアドミラルラウス Admiral Rous とペトレル Petrel だった。
 アドミラルラウスは、19 世紀半ばのイギリスのジョッキークラブの中心人物の名にちなみ、ペトレルはミズナギドリの意だろう。2頭とも、名義はバロン(Baron 、本名不明)となっている。

 このシーズンでは、1876年以来続いていた横浜の競馬クラブの分裂状態が解消され、ヨコハマ・ジョッケー・クラブが結成されていた。日本人の入会を認め、日本側の協力を得ることで、合同までこぎつけたのだった。
 だがこのクラブも、内部対立を抱え込み、次第に有力オーナーや厩舎が撤退し、会員も減少して、財政難に陥っていく。そして、日本側の全面的撤退が決定打となり、2年足らずであっけなく存続不能に陥るのだが、その内部対立が明らかとなったのは、雑種馬をめぐる問題からだった。
 なおヨコハマ・ジョッケー・クラブでは、雑種馬でも、母馬が日本馬の場合、日本馬と種別される規定(第 19 条)となっていた。

 ジョッケー・クラブの第1回開催は、1878(明治11)年5月の春季開催だった。
 期待されたアドミラルラウス、ペトレルの2頭は、ともに各1勝をあげたものの、カリカリとした気性が災いし、日本馬や中国馬には簡単に敗れてしまった。
 イチロクの場合もそうであったが、トロッターやアラブの血脈を受け継いでいれば、後のレース成績から見ても、日本馬や中国馬に負けることは、余程のことがなければ考えられなかった。それが、こうもあっさり負けたことを見ると、雑種馬の調教技術が手探りで、まともに走らせることができなかったとしか考えられない。
 だがそれでも、少しでも能力が発揮できる状態となれば、日本馬や中国馬に圧勝してしまうことは明らかだった。

 したがってこの春季開催後に、雑種馬を独自の種別としたレースを新設しようとする提案がなされたのも当然のことで、こういった声は、雑種馬が登場した1877年の秋のシーズンの前から持ち上がっている。
 提案者は、陸軍お雇いフランス人馬医アンゴ A.R.D.Angot(中尉相当、1874年来日)。日本側と居留民との橋渡し役も勤め、三田や戸山の競馬、あるいは吹上御苑での競馬にも、中心的な役割を果たしていた人物だった。
 だがアンゴが、日本側の代弁者の役割を担っていたことはよく知られていたこともあって、ときのクラブの委員会は、その提案を棚上げにしてしまう。つまり次開催も、雑種馬は日本馬として出走することになった。

 このような委員会の対応は、日本側の影響力が強まることへの懸念から生じている。
 雑種馬のレースを維持していこうとすれば、雑種馬が主に政府機関で生産されているため、どうしても日本側に依拠せざるを得ない。その上、日本側が、当時すでに、中国馬のレースを馬匹改良に結び付かないと、その意義を全く認めておらず、そういった日本側の発言力が強まることは、横浜の競馬に深く根付いている中国馬のレースを、後景に退かせることにつながりかねない。
 日本側の協力を得てクラブが結成されたとはいえ、従来の横浜の競馬を守ろうとするグループが、まだ大きな力をもっていたのである。

 そして迎えた1878(明治11)年の秋季開催では、先のアドミラルラウスとペトレルの2頭が、日本馬や中国馬を全く問題としない強さを見せつける。
 出走可能だった日本馬限定の8レース、日本馬と中国馬の混合の5レース、計13の内の、2頭で8レースを、もう1頭の雑種馬が2レースを、計10レースも勝鞍をあげてしまったからである。
 その結果は居留民に対して、「根岸競馬における日本産の馬の時代の始まりと記録されるだろう」とまで言わしめるような衝撃を与えた。

 このような事態は、居留民にとっては大きな問題だった。なぜなら、このまま雑種馬を日本馬として出走させるならば、日本馬のレースだけでなく、日本馬と中国馬との混合のレースまでもが、雑種馬に勝たれてしまうからである。
 混合のレースは、それまでは中国馬が圧倒的に優位だったので、それは事実上中国馬のレースの減少を意味した。
 また日本馬のオーナーも、持馬が勝つ見込みはなくなってしまう。

 したがって、このような事態の回避を求める声が強くなる。
 ようやく翌1879(明治12)年2月のクラブ総会で、雑種馬レースの新設が決定され、同時に規定が変更され、母馬、父馬のいずれかが洋種の場合には、雑種馬の種別に入れられる。
 ちなみにこのとき、日本側の主張を全面的に取り入れる形で、中国馬を排除して、雑種馬と日本馬で根岸競馬を実施していこうとの声もあがっていたが、もちろん合意を得ることはできなかった。
 この決定を受けて、1879(明治12)年の春季開催では、中国馬8、日本馬9、その混合5、雑種馬6(この開催では、内1レースが不成立)というレース数で番組は編成され、幕末以来維持されてきた競走体系は変更される。

 だが、雑種馬のレースへの懸念と不満の声は、解消されてはいなかった。居留民にとって、入手ルートも限られている上、絶対数が少ないだけに能力差も大きく、有力馬のオーナーだけの利益にしかならないことが予測されたからである。
 しかも、いずれ日本側の雑種馬に席巻されることも、目に見えていた。

 この春季開催では、新設された雑種馬のレースにおいて、その懸念や不満の根拠の正しさが、立証されることになる。
 雑種馬のレースには、アドミラルラウスとペトレルの2頭のほかに、新馬が6頭出走したが、先の2頭と、新馬戦を勝ったウォーウィック Warwick に対して、他の馬はまったく歯が立たなかった。しかもこの3頭とも、オーナーはバロンで、互いに勝鞍を分け合い、全5レースの内、開催未勝利戦を除く4勝をあげてしまう。
 なおウォーウィックは、バラ戦争時の提督、あるいはイギリスの都市の名にちなんだものだろう。

 この事態を前に、クラブの委員会は、日本側との共同歩調の道を探るのではなく、その影響力を排除する方向に向かい、雑種馬のレース数を6から3に縮小することが決定される。
 こういったクラブの方針に反対して、有力オーナーや厩舎は撤退を表明し、日本側も全面的に手を引くことになる。
 このため、1879年の秋季開催は、それまでの3日間から2日間に、出走馬も、春季の延べ136頭から35頭へ、実数も41頭から13頭へ大幅減という惨憺たる有様となる。
 雑種馬のレース数も2となり、出走はアドミラルラウスとウォーウィックの2頭だけとなった。

 クラブは、会員減と資金不足で、解散の道しか残されてないような苦境に陥る。横浜の競馬の存続をはかるには、馬の面でも資金的にも、いまや日本側の積極的な支援が不可欠だった。それは、馬匹改良と結び付く雑種馬と日本馬の競馬を根幹にするという、日本側の要求を取り容れることを意味していた。こうして、1880(明治13)年4月、ニッポン・レース・クラブは誕生する。
 おりしも、共同競馬会社と三田興農競馬会社が設立され、雑種馬と日本馬による競馬が開始されていた。
 雑種馬の新たな時代の始まりだった。アドミラルラウスとウォーウィックの2頭にも、活躍の場が与えられることになった。