第12回 雑種馬の登場(2)

 1880(明治13)年は、日本の競馬が新たな時代を迎えた年であった。
 4月、明治政府が全面的にバックアップし、内外の一大社交機関としての性格も兼ね備えたニッポン・レース・クラブが根岸に誕生した。
 5月には、東京で2番目の競馬クラブとして、三田興農競馬会社が初回開催を行い、前年11月結成されていた共同競馬会社も、それより先の4月には戸山競馬場で第2回開催を迎え、その運営も本格化していた。
 この新段階に入った競馬のシンボルが、雑種馬であった。

 1880年6月7、8、9日に、根岸競馬場行われたニッポン・レース・クラブの第1回開催では、雑種馬のレースが、全23のうち6レースを占めた。
 雑種馬は、日本の馬匹改良の基幹として位置づけられ、宮内、内務、陸軍の各省も、競ってその生産、育成に力を注ぎ始めていて、そのいわば第一期生たちが、このときの競馬に登場してきたのである。
 代表馬だったのが、ボンレネー Bon Rene 、朝顔、ホクセ Hokuse などで、居留民が所有するアドミラルラウス、ウォーウィック(前回参照)と対決することになる。

 ボンレネーのデビューは、共同競馬会社の第1回開催、朝顔のデビューは、同じく共同競馬会社の第2回開催だった。どちらも、三田興農競馬会社の第1回開催でも、それぞれ勝鞍を重ねていた。
 両馬とも陸軍の所有で、お傭いフランス人馬医・アンゴ A.R.D.Angot か、砲兵大尉岩下清十郎、あるいはその共同名義で出走し、軍馬局の久保田成章が主戦ジョッキーとなる。

 ボンレネーは、青森広沢牧場産で、1876(明治9)年生、鹿毛 bay 、4尺9寸4分(約 149.7 a)、第1回内国勧業博覧会(1877年)に出展され、最優秀賞を受賞していた。
 1876年に広沢牧場で生まれた馬は13頭で、7頭が雑種であったが、ボンレネーはそのなかでの一番の駿馬だった。(詳しくは「文明開化に馬券は舞う」第22回参照)

 ホクセは、このニッポン・レース・クラブの開催がデビューとなる。岩下とアンゴの共同名義で出走したが、実際は内務省勧農局の所有で、三田育種場で「農馬」として飼養されていた馬だった。南部産、1872(明治5)年生、月毛 Cream 、4尺5寸1分(約 136.7 cm)。
 のちに圧倒的な強さを発揮しただけでなく、尾を五色の糸で結んで「ハラハラと下げ」ていたから、その姿も人目も引くものだった。
 居留民は、その小さな体や毛色にちなんで、 Little Wonder とか、 Little Cream と呼んだ。

 初日、新馬及び未勝利馬限定のトライアルプレート Trial Plate が、、距離5ハロンで行われる。これからを占う根幹と位置づけられたレースで、ホクセが勝利を収める。
 ホクセは、二日目の 1/2 マイル戦でも、ウォーウィックを直線で交わすという、新馬らしからぬ味のある勝ち方を見せた。のちの姿を、充分予感させるレースぶりだった。

 この開催後、ホクセは「駿良」であるとして、内務省勧農局から宮内省へ献上されたが、残念ながら、翌年1881年秋のシーズンまで、姿を見せることができなかった。
 再登場の際は、白雲(ハクウン)と名を変え、土方久元、大河内正質、藤波言忠の宮内省関係者の名義で出走する。

 一方ボンレネーは、初日にアドミラルラウスと対戦する。
  3/4 マイル戦、5頭立のレースで、アドミラルラウスが先行し、ボンレネーが直線で追い込むが、クビ差届かなかった。
 勝ちタイムは1分38秒と優秀で、他の馬では相手にならなかった。

 当時の負担斤量は、体高が基準とされ、アドミラルラウスの方が高くて11ストーン(註)、ボンレネーが10ストーン8ボンドで、6ポンドの斤量差があった。
 また、レース毎に斤量の規定があり、通常、指定レースの勝鞍、あるいは勝鞍数で、増量が行われた。アドミラルラウスは、この勝鞍で、以後のレースは10ポンド増となった。
 したがって二日目には、両馬の斤量差は16ポンドとなり、こうなればボンレネーが楽勝しても当然だった。時計は、1マイルで2分12秒。今では 2200 m
のレースのタイムに相当するが、当時にあってはレコードタイムで、ボンレネーの能力を示したものだった。

(註)
ストーン stone = 6.350 kg、1 stone=14 pounds
ポンド pound=0.454 kg、6ポンド=約 2.7 kg、16ポンド=約 7.3 kg

 朝顔は、三日目の開催未勝利馬のレースで初勝利をあげた。
 三日目の雑種馬のハンデのチャンピオン戦では、新馬のホクセを除いた古馬の一線級4頭が、初めて顔を合わせる。
 それぞれの斤量は、朝顔・10ストーン(註)、ウォーウィック・10ストーン12ポンド、ボンレネー・11ストーン10ポンド、アドミラルラウス・12ストーンで、各馬の実力の評価に対応していた。
 今から見れば、各馬とも重すぎるが、当時としては普通の斤量だった。

 レースはあっけなかった。最軽量の朝顔が、道中大逃げをうち、そのまま2分13秒で楽勝した。ボンレネーのレコードより1秒遅いだけであったから、好時計といえよう。
 2着は、直線よく追い上げてきたボンレネー、3着ウォーウィック、アドミラルラウスはハンデが応えての4着であった。
 朝顔にとっては大金星で、ボンレネーも実力を見せたレースだった。

(註)
 10ストーン=約 63.6 kg、10ストーン12ポンド=約 68.9 kg、
 11ストーン10ポンド=約 74.4 kg、12ストーン=約 76.2 kg

 この春のシーズン終了後、ボンレネーと朝顔は、ときの陸軍卿で競馬の中心でもあった西郷従道の名義に移される。
 そういう事情もあってか、岩下清十郎砲兵大尉とアンゴーの二人は、自分たちの名義だったボンレネーなどの写真を、久保田成章に騎乗してもらって撮影している。撮影場所は、東京印刷局だった。東京と横浜の競馬で、数々の勝鞍をあげたその姿を、永く伝えようとしたのだろう。

 1880(明治13)年秋のシーズンは、10月17、18日が共同競馬会社、10月27、28、29日がニッポン・レース・クラブ、11月20、21日が三田興農競馬会社の開催というローテーションで行われる。

 最初の戸山開催では、ボンレネーは出走せず、それに代わるかのように、暁霜(芦毛)が、宮内省下賜賞典を含む2勝をあげた。
 暁霜は、春の根岸の新馬戦でホクセの2着だった馬で、これも当時の競馬の中心的人物であった軍馬局長松村延勝騎兵大佐(後に佐野に改称)の名義だった。
 暁霜はその直後、根岸開催二日目の県令賞盃 Kenrei Cup で、朝顔やウォーウィックを破り、翌年5月の戸山開催でも、宮内省下賜賞典を獲得するなど、中々の能力の持主だった。
 この時点では、陸軍省の雑種馬の層が厚かったことになる。

 つぎの根岸開催では、ボンレネーとアドミラルラウスの対決が注目を浴びた。2戦し、ともに1マイルの2頭立で、実力のぶつかりあいとなり、スタートからゴールまで観客の声援で大いに沸いた。
 ただ朝顔は、初日のレースでアドミラルラウスにあしらわれていて、この争いに加わることはできなかった。
 ボンレネーとアドミラルラウスは、二日目に初めて顔を合わせる。初日の勝鞍で、アドミラルラウスは7ポンド増量され、ボンネレーのほうが13ポンド(約 5.9 kg)軽量だった。
 スタートよく飛び出したボンレネーに、アドミラルラウスが外から馬体を合わせ、譲らないまま直線に入る。ボンレネーが一旦引き離し、アドミラルラウスが再び追い込んできて、最後はクビ差でボンレネーが勝つという接戦となる。タイムは、レコードと同じ2分12秒だった。

 三日目のチャンピオン戦は、体高基準斤量の規定によって、ボンレネーは6ポンド(約 2.7 kg)軽量となる。
 このチャンピオン戦では、スタートから先行したボンレネーが、そのまま直線に入り、終わってみれば3馬身差をつけて楽勝した。タイムも、それまでのレコードを1秒 1/4 もつめた2分10秒 3/4 というすごいものであった。
 この一戦は、今でいえば定量戦で、それでもこの結果であったことは、ボンレネーが雑種馬のチャンピオンの座についたことを強く印象づけた。
 日本人の観客は、大満足したと伝えられている。

 またこの開催では、タチバナという馬がデビューしている。開拓使の山島久光の名義で、おそらくトロッターの種牡馬を導入していた北海道七重農業試験場の生産馬だった。
 タチバナは、初日の5ハロン戦を1分17秒で楽勝したが、この時計は優秀で、将来を期待される。この後、北海道産の雑種馬は、それまでの馬たちを問題にしないほどの強さを発揮していくことになるが、タチバナがその皮切りであった。

 こういったなかでは、入手ルートが限られている居留民の雑種馬は、勝つ見込みが、今後さらに小さくなっていくことが目に見えていた。
 雑種馬、日本馬に番組編成の重点をおくクラブに対して、居留民が、不満を募らせ、番組編成の変更を求めたのは、この秋季開催後の12月30日、ニッポン・レース・クラブの第1回総会でのことだった。
                (「文明開化に馬券は舞う」第21回参照)

 根岸に続く三田開催では、豊駒という馬が再起してきた。
 二階堂蔀の名義で、内務省勧農局の所有、東京豊島郡駒場産、芦毛 grey 、1872(明治5)年生まれの8歳であった。
 豊駒は、1879(明治12)年11月30日、戸山競馬場における共同競馬会社第1回開催の折りに、ボンレネーとの対戦で、「人目を驚かせ」るような勝ちぶりを演じていて、それ以来の登場だった。
 この2頭は、初日、二日目と対戦し、いずれも1着豊駒、2着ボンレネーとなる。この2レースは、観客が「最も目を注ぎしもの」だった。
 陸軍省に続き、内務省も活躍馬が登場し、残るは宮内省だけとなった。

 根岸開催では、強さを見せていたボンレネーだったから、三田での敗戦は予想外のものであった。
 これに対して、飼葉の種類や量など、細心の注意を払って飼養していたアンゴの手を離れ、西郷従道の名義となり、その飼養方法が杜撰になったからだとの声もあがっていた。
 ボンレネーへの期待の高さを示しているが、ボンレネーは再びチャンピオンの座に返り咲くことはなかった。

 翌1881(明治14)年の春秋のシーズンが、新旧交代劇の舞台となる。