第13回  雑種馬の登場(3)

 明けて迎えた1881(明治14)年・春のシーズン。
 5月9、10、11日に行われたニッポン・レース・クラブの根岸・春季開催では、前年秋にデビューしていたタチバナが、期待に応えてチャンピオンの座を獲得するとともに、小桜が鮮烈なデビューを飾った。

 タチバナは、まず初日、宮内省賞典 Kunaisho Vase 、3/4 マイルに出走するが、他の4頭とはスピードの違いを見せつけ、抑えたままで楽勝した。タイムは、それまでのものを4秒もつめた1分32秒 1/2 というすごいレコードを記録する。2着・アドミラルラウス、3着には豊駒が入っている。
 三日目、チャンピオン決定戦の主員賞盃 Patrons' Cup 、1周(約1700m)でも優勝し、タイムの2分10秒は、中国馬のレコードよりも7秒ほど速いものだった。2着・ボンレネー、3着・暁霜、4着には豊駒が入っている。
 タチバナが、それまでの雑種馬と比較して、一つも二つも抜けた能力をもっていることは明らかだった。
 しかし、それを上回るものを見せたのが小桜である。

 小桜は、北海道産、青毛、4尺6寸3分(約 140.3 a)、1879(明治12)年に、開拓使から宮内省へ献上された馬だった。
 父は、日本側の資料ではドンジュアンと記されているが、綴りは Don Juan であるから、ドンファンとするのが適切である。ドンファンは、1869年ケンタッキー生まれのトロッター種で、初期の北海道開拓の中心人物 A.C.ケプロンを介して、1873(明治6)年に開拓使の所有となる。東京での種牡馬生活を経たのち、1875(明治8)年から、函館郊外の七重農業試験場に移った。
 母は、薩摩産とアラブの雑種だったといわれている。
 小桜は、体高は低かったが、馬体はすばらしく、居留民の目から見ても、西洋種の特徴がよく出ていたという。
 ここでの名義は、後に馬政の中心人物の一人となる宮内省の藤波言忠だった。

 小桜は、初日の雑種馬のメイドン戦、5ハロンを楽勝して、三日目の日本馬と中国馬と雑種馬との混合戦、1周、10頭立に出走してきた。
 このレースは圧巻だった。アドミラルラウスも出走していたが、小桜は馬なりのまま逃げ切り、しかも同じ日のタチバナのタイムを、3秒半も上回る2分6秒 1/2 という驚異的なレコードだった。

 居留民は、小桜に対して、これまで日本で育成された中で最高級の馬だとの讃辞を呈した。それほど、馬体とレースぶりはすばらしく、政府が目指すべき馬匹改良の方向性が、これで明らかになったとの評価の声もあがっていた。

 これに対して、豊駒も、ボンレネーも、それぞれ1勝をあげただけで、朝顔は未勝利に終わっている。
 またアドミラルラウスも未勝利に終わり、かつての最強馬も、その評価は4、5番手にまで下がっていた。

 振り返ってみれば、1880(明治13)年6月、ニッポン・レース・クラブの第1回開催からここまで、雑種馬の新馬あるいは未勝利戦は、3回行われていたが、その勝馬であるタチバナや小桜は、かつての強豪馬を圧倒するほどの実力をみせていた。
 また、第1回開催のデビュー以来姿を見せなかったホクセも、この秋のシーズンからは白雲と名を変えて出走し、大活躍することから、雑種馬の世代交代が、確実に進んでいたことがわかるだろう。
 それは、レコードタイムの驚異的な更新に端的に示されている。雑種馬の水準は、確実に上がりつつあったのである。

 そして、1881(明治14)年秋のシーズンを迎える。
 11月4、5、7日はニッポン・レース・クラブの根岸、11月19、27日は共同競馬会社の戸山、12月3、11日、三田興農競馬会社の三田、という開催日程だった。
 だがそこには、アドミラルラウス、そして豊駒、さらには期待されていたタチバナの姿はなかった。
 タチバナは翌年春に出走してくるが、アドミラルラウスと豊駒の2頭は、結局、その年の春のシーズンで引退したことになる。
 結果的に根岸、戸山、三田の3競馬場の開催では、雑種馬の出走頭数が減り、3レースしか行われなかった。
 しかし少頭数ではあっても、ボンレネー、白雲、小桜の3頭が、本格的な勝負を繰り広げた。

 根岸の開催では、初日から3頭の対決を迎える。
 名義は、ボンレネーが陸軍卿・西郷従道、小桜、白雲がそれぞれ宮内省の藤波言忠、大河内正質で、いずれもこの時代の競馬の中心人物だった。
 レースは 3/4 マイル、春の実績から、小桜が本命に推される。
 小桜が先行し、それをボンレネーがマークする展開となるが、まず小桜がずるずると後退すると、白雲が追い込み、ボンレネーを交わして1分33秒で勝った。
1馬身 1/2 差の2着がボンレネーだった。
 白雲は、3シーズンぶりの復帰戦を好タイムで飾ったことになる。
  
 三日目、チャンピオン決定戦の宮内省賞盃 Kunaisho Cup 、1マイル 1/2 のも、3頭が出走する。
 スローペースで始まり、3頭が雁行し、そのなかから白雲がハナに立ち、ここでもまずは小桜が遅れ始める。ボンレネーが追いすがろうとしたが、結局、白雲が3馬身をつけ、3分19秒で楽勝した。

 このように、根岸の開催は白雲の圧勝に終わった。
 小桜は、3レースとも途中でついていけず、春の衝撃的なデビューから見ると、明らかに本調子になかった。
 ボンレネーは健闘したが、白雲との力の差は大きかった。

 つぎの戸山の開催では、初日に白雲とボンレネーの2頭が顔を合わせる。結果は実力通りで、つぎのようなレースぶりで白雲が勝った。
「縦覧人も、今日の晴勝負如何ならんと、片唾を飲んで見物せしに、両馬は何れも名ある駿馬、始終勝り劣りなく首を駢へて駈行きしか、僅の所にて白雲の乗手、エーと一声掛るや否や、遂に白雲はボンレネーを越えて、勝を取りしは、最も目覚しかりき」
            (『東京横浜毎日新聞』明治14年11月20日)

 中7日をおいての二日目、宮内省下賜賞典、約1900bは、白雲、ボンレネー、小桜の3頭立の対戦となった。
 やはりここでも、白雲が3馬身差の楽勝劇を演じ、秋のシーズンを4戦無敗とする。

 また、二日目の雑種馬の開催未勝利戦では、小桜とボンレネーが出てきた。
 ボンレネーが本命だったが、行きぶりが悪く、道中一度も先頭に立てず、本調子になかった小桜に敗れてしまう。
 レース後、ボンレネーの騎手、軍馬局の久保田成章は、怒って鞭でボンレネーの頭を打ったという。

 そして三田の開催では、初日に雑種馬のレースが、これも3頭立で行われる。
ここでは、つぎのようなレースぶりでボンレネーが楽勝した。
「出発の時、白雲少しく後れて、小桜が先頭となり、ボンレネー又之に続きて競走せしが、三頭共寸延の逸物なれば、其の迅速なる矢の如く、瞬時間にして馬場の半ばを過ぎしが、ボンレネーは小桜を追い越し、遂に15間(約27m)も先きになり、勝となれり」
               (『東京横浜毎日新聞』明治14年12月4日)
 ボンレネーは、持主は西郷従道、騎手は久保田から乗り代わった軍馬局の根村市利で、ともに非常に面目を施すものとなったという。
 ただ、ボンレネーの評価は低く、賭けも波乱となった。
 
 中7日の二日目も、再び3頭の対戦となり、ここでは白雲が力を発揮した。
「何れも名ある駿馬小桜、白雲、ボンレネーにてありければ、満場の観客も、殊更其勝負如何に注目し居たりしが、合図の旗一振々ると見るから彼の三頭は斉しく頭を並べて飛出し、白雲は繞かに一歩小桜に先きだち、ボンレネー之れに次ぎ、雲や霞と駈廻りしが、一ト廻り半競走せし後、終に白雲の勝とはなれり」
            (『東京横浜毎日新聞』明治14年12月13日)

 このように白雲は、三田の初日にこそ敗れたものの、秋のシーズンを6戦5勝の戦績で終える。当初高い評価を受け、期待された小桜や、ボンレネーなどを、問題としないほどの力を見せつけた。
 前回でもふれたように白雲は、尾を五色の糸で結んで「ハラハラと下げ」、人目を引く姿で出走していた。居留民の間からは、タイフーンの Little Man(第4、5回参照)のように、その小さな体や毛色にちなんで、 Little Wonder あるいは Little Cream と呼ばれる。
 この当時宮内省は、日本馬では立ち遅れていたものの、雑種馬で白雲という「スター馬」が誕生したことは、それを帳消しにしてあまりあるものだった。

 なお小桜は、調子をとりもどすことができず、1881(明治14)年秋が最後のシーズンとなる。血統や、デビュー時に示した能力から、1883(明治16)年3月には、福島の産馬会社へ種牡馬として払い下げられた。

 翌1882(明治15)年の春のシーズンには、白雲らの「古馬」たちに、今度はダブリン、千途勢といった新馬たちが挑んでこようとしていた。