第14回  雑種馬の登場(4)

 1882(明治15)年春のシーズンは、5月8、9、10日がニッポン・レース・クラブの根岸開催、27、28日が共同競馬会社の戸山開催、6月9、10日が三田興農競馬会社の三田開催、という日程で行われる。
 タチバナ、ボンレネー、そして圧倒的な強さを示した白雲の古馬陣に、ダブリン、千途勢、桜野といった新馬たちとの争いとなる。
 この新馬たち、特にダブリンが強かった。

 ダブリンは、農商務大臣西郷従道の名義の栗毛馬で、1881(明治14)年第2回内国勧業博覧会に出陳され、西郷に600円で買上げられていた。
 気性も良く、それまでの馬で最高の馬体をしているというのが居留民たちの評価であったが、それもいわば当然だった。というのは、同名の父、ダブリン Dublin は、北海道の馬産の祖ともいえるエドウイン・ダン Edwin Dun を通じて、アメリカから購入されたサラブレッドだったからである。

 ダブリン Dublin は、1871年・ケンタッキー産で、開拓使の新冠牧場(1883年、新冠御料牧場)で供用されていた。産駒のダブリンは、血統が判明するサラブレッドの血を引いた競走馬としては、第一号ともいうべき馬だった。
 エドウイン・ダン及び種牡馬のダブリンについては、近い機会に紹介したいと思う。

 桜野、芦毛は、大河内正質や土方久元の名義で、千途勢は、藤波言忠や米田虎雄の名義で出走したが、この4名は、いずれも宮内省の人間だった。
 宮内省は、このように雑種馬に力を入れ、日本馬からは撤退し始めていた。

 シーズンの開幕となった根岸開催では、初日、第3レース・主員賞盃 Patrons'Cup(3/4 マイル)から、さっそく桜野が、古馬の白雲、ボンレネー、及び2シーズンぶりとなるタチバナに挑んだ。
 白雲が貫禄を示して1分36秒で楽勝したが、2着には桜野が入り、新旧交代の予兆となる。
 ボンレネーは、道中3番手を進んだが、タチバナに交わされて、最下位に終わる。前年春のシーズン後に、アンゴーの手を離れて以来、ボンレネーは生彩を欠き、気性の悪さも見せるようになっていた。
 なお主員とは、ニッポン・レース・クラブの名誉会員である有栖川宮、東伏見宮、伏見宮、北白川宮のことであったから、このレースは、彼ら皇族が寄贈したカップ戦であった。

 初日、第9レース・メイドン Half-Bred Maiden Stakes(5ハロン)は、ダブリン、千途勢、桜野、3頭の新馬戦となる。
 ダブリンが前評判通り勝ち、2着千途勢、3着桜野で、結果的に見れば、3頭の実力は、この着順通りであった。
 タイムは1分21秒、小桜がデビューしたときよりも、4秒ほど遅かったが、時計は問題ではなかった。

 二日目、第6レース・根岸景物 Negishi Stakes(1周1 distance 約180
0b)では、この新馬3頭が、白雲に挑戦する。
 ダブリンが、半マイル地点でスパートし、そのまま2分23秒 1/2 で逃げ切
ってしまう。白雲は、初日の勝利で10ポンド増量されていたが、それがなくてもと思わせる勝ちぶりで、ダブリンの強さは本物であった。
 2馬身差の2着が白雲、3着千途勢、4着桜野だった。

 三日目、第1レース・チャンピオン決定戦 Half-Bred Handicap(1周・約1700m)には、ダブリンが出走せず、千途勢、桜野の新馬2頭と、白雲とボンレネーの4頭立となる。
 それぞれの斤量は、千途勢が9ストーン10ポンド、ボンレネーは10ストーン、桜野は10ストーン4ポンド、白雲は11ストーンで、トップハンデでもダブリンがいなければ、白雲の勝利は間違いないというのが大方の予想だった。
(註)
 だが、レースは違ったものとなる。
 軽量の千途勢とボンレネーが先行し、2頭の行きぶりはよく、とくにボンレネーの手応えはよく、直線に入るまでは勝つ勢いだった。ところが、コーナーでふくれてしまったために千途勢が勝ち、ボンレネーは2着となる。
 白雲は追い込んできたが、3着に終わった。
 軽量だったとはいえ、千途勢の勝タイムは、前年春の小桜のものを 1/4 秒上回る2分6秒 1/4 のレコードだった。

(註)
 ストーン stone = 6.350 kg、1 stone =14 pounds 、
 ポンド pound  = 0.454 kg 
  9ストーン10ポンド=約 61.7 kg
 10ストーン     =約 63.5 kg
 10ストーン 4ポンド=約 65.3 kg
 11ストーン     =約 68.9 kg

 このように、前年の秋には圧倒的な強さを示した白雲が、新馬のダブリン、千途勢の前に敗れてしまい、ボンレネーは、チャンピオンレースでの善戦はあったものの、生彩を欠き、競走馬としての終わりを迎えようとしていた。
 この1年ごとの新旧交代劇は、雑種馬の質が目に見えて向上していたことの例
証であった。

 つぎの戸山開催では、ボンレネーが欠場する。
 初日、第3レースは、ダブリンと白雲などの4頭立となった。白雲が焦れ込ん
で出遅れ、後方からのレースとなり、もはやダブリンの大楽勝と思われた。だが、勝つには勝ったが、白雲に差をよく詰められたことからすると、ダブリンは、本調子にはなかったのだろう。
 そのためか、同日、第6レースでは千途勢に、ついで二日目第3レースでは白雲に敗れてしまい、第7レースのチャンピオン戦に勝ったのも、千途勢の前を犬が横切ったことに助けられた観があった。
 後から振り返れば、ハンデとの戦いとなるた1883(明治16)年秋のシーズンにいたるまでで、ダブリンが敗戦を喫したのは、ここだけであった。
 なお千途勢は、この開催後に病気にかかり、ほぼ1年休養する。再登場には、1883(明治16)年、戸山の春季開催まで待たなければならない。

 中10日余りの三田開催では、体調がもどらないダブリンが欠場し、出走馬は、白雲、桜野、ボンレネーの3頭となった。だがボンレネーは、明らかに無理をしていた。

 二日目、第2レース・農務局賞典、これだけがやっとレースとして成立する。
 勝ったのは桜野、2着白雲で、やはりボンレネーは問題にならなかった。
 そして、これがボンレネーの最後のレースとなる。1880(明治13)年、ニッポン・レース・クラブの秋季開催でチャンピオンの座についた以外は、物足りない競走馬生活であった。
 消息は不明だが、愛馬家の西郷従道は、当時、栃木県那須野ヶ原に牧場を開いてもいたので、それなりの晩年を送らせたものと思う。

 1882(明治15)年、秋のシーズンは、10月30、31日、11月1日のニッポン・レース・クラブの根岸開催と、11月18、19日の共同競馬会社の戸山開催だけで、本調子にもどったダブリンの強さが一層際立つものとなった。
 なお、三田興農競馬会社は、賞金難から、雑種馬の出走条件を未勝利馬及び新馬に限定したため、1レースしか実施されず、ダブリンらは出走できなかった。

 シーズン幕開けの根岸開催では、初日、第9レース・宮内省賞盃 Kunaisho Cup(3/4 マイル)に、ダブリン、白雲、桜野の3頭が顔を合わせる。
 桜野が先行したが、後方から追い込んだダブリンが1分32秒 3/4 の好時計で楽勝し、白雲が2着に入る。

 二日目、第5レース・北海道賞盃 Hokkaido Cup(1周1 distance)も、同じメンバーの3頭立となり、再びダブリンが2分23秒で楽勝し、着順も2着白雲、3着桜野と、前日と同じだった。
 レース後、グランドスタンド前での表彰式において、騎手に賞典を授与したのは持主の西郷従道であったが、その際、観客の中から、西郷に対する歓呼 three cheers の声があがる。
 西郷は、1875(明治8)年秋季開催以来、横浜の競馬に関わり、日本側を代表するクラブの役員で、そういった西郷に対して、居留民たちが示した好意と敬意であった。
 三日目、第1レース・チャンピオン戦 Half-Bred Handicap(1周)には、ハンデが重くなり過ぎたダブリンは出走してこなかったので、白雲が2分13秒で楽勝した。

 続く戸山開催の初日、第3レースは、白雲とダブリンの2頭立となったが、もはや実力差は明らかだった。レースもその通りとなり、先行した白雲を、ダブリンが楽々と抜き去っていった。
 二日目・第6レース・チャンピオン戦も、ダブリンの圧勝劇に終わる。スピードの違いを見せつけて、手綱を抑えたままで先行し、ゴール前で桜野が迫ってきたところを見計らって、手綱を緩めると、その差が見る見ると開いていった。 
これより先の第2レース・皇族下賜賞典は、ダブリンが不在では白雲が強く、桜野を2着に下し、楽勝していた。

 このように白雲も、ダブリンを除けばまだ強かったが、もはやダブリンの相手でないことも明らかで、このシーズンでそれを再確認したかのように引退し、1884(明治17)年12月、福島へ種牡馬として払い下げられる。

 ダブリンは、デビューの春のシーズンでもかなりの強さを発揮していたが、この秋のシーズンでは、根岸、戸山と、さすがにサラブレッドの血を引く馬らしく圧倒的な強さを示していた。
 ダブリンは、翌1883(明治16)年、春のシーズンでも、悠々とチャンピオンの座を保持していく。