第15回  雑種馬の登場(5)

 明けて1883(明治16)年春のシーズンは、5月16、17、18日がニッポン・レース・クラブ、6月2、3、4日が共同競馬会社という開催日程だった。
 雑種馬に関しては、王者ダブリンに新興勢力の鴻雲、金堀が挑むという構図となる。
 金堀は、宮内省の所属馬で、大河内正質、藤波言忠、米田虎雄、いずれか一人の名義を使ったが、一時は伊藤博文の名義でも出走する。
 鴻雲は、陸軍軍馬局あるいは騎兵中佐・松村延勝の名義で出走した鹿毛の馬で、1881(明治14)年の第二回内国勧業博覧会に、岩手県から出陳されたのを、陸軍省が、博覧会第一の高価格800円で買上げていた。
 なおこのシーズン以降、三田興農競馬会社は、資金難から雑種馬のレースを廃止し、日本馬だけで開催を行っている。

 まず根岸の春季開催・初日のメイドンでは、金堀が勝ち、鴻雲が2着となる。
 二日目のレースでも同じ着順であったから、この時点では金堀の力が優っていたことになるが、ダブリンに挑んだのは鴻雲だった。鴻雲が将来性を感じさせたからだが、後にその判断が正しかったことが立証される。
 ダブリンは、初日に楽々と勝鞍をあげたのち、三日目のチャンピオン戦、1周(約 1700m)に臨む。ハンデは11ストーン7ポンド(約 73 kg)、鴻雲が10ストーン2ポンド(約 64.4 kg)、もう1頭が9ストーン(約 57.2 kg)だった。上下35ポンド(約 15.9 kg)のハンデ差だったが、ダブリンは、これをものともせず、抑えたまま2分9秒 1/2 という好タイムで楽勝した。
 鴻雲は、最下位の3着に終わる。

(註)
 1ストーン stone = 6.350 kg
 1ポンド pound  = 0.454 kg
 1 stone =14 pounds

 つぎの戸山開催の初日、距離1周(約 1280 m)のレースには、ダブリン、金堀、鴻雲の3頭がそろって、初めての直接対決となる。ここも力通り、ダブリンが1分45秒で楽勝し、2着は金堀、3着は鴻雲だった。

 二日目の5頭立のレースは、ダブリンのあまりの強さの前に、残りの4頭が出走を取り消す。ダブリンは単走で1周したが、そのタイムは前日を上回る1分44秒だったから、かなり本気で走っていたことになる。当時の新聞の論評によれば、「希代の騏足と云ふべき歟」という駆けぶりであった。

 三日目、宮内省下賜の賞典を競うレースにも、この3頭が出走予定であったが、こんどは金堀の単走となった。鴻雲が脚を痛めて出走を回避し、宮内省所属の金堀に花を持たせる格好で、ダブリンも取り消したからである。

 このように春のシーズンには、ダブリンが4戦無敗で根岸と戸山を駆け抜け、デビュー以来の戦績も12戦10勝とする。
 金堀が2番手、その後に鴻雲が続く、という勢力地図だったが、この2頭とダブリンとの実力差は大きかった。

 秋のシーズンでは、有力な新馬も登場しなかったので、ダブリンの敵はハンデ、あるいは体調だけとなった。
 11月6、7、8日には、根岸で競馬が開催され、初日のメイドンでは鴻雲が、根岸、戸山を通じて初めての勝鞍をあげ、見込み通り成長を遂げていることを示した。
 金堀は、初日にダブリンと対戦し、焦れ込んでスタート前にコースを1周してしまい、3着に終わったが、二日目には順当に勝ち上がる。
 そして三日目に、距離1周で行われるチャンピオン戦 Half-Bred Handicap を迎える。ダブリン、金堀、鴻雲らの4頭立で、各馬のハンデは、ダブリンが12ストーン(76.2 kg)、金堀が11ストーン4ポンド(約 71.7 kg)、鴻雲が10ストーン10ポンド(約 68 kg)で、上下差18ポンド(約 8.2 kg)もあったが、もちろんダブリンが本命に推された。
 ところが、レースは大番狂わせとなった。鴻雲が勝ち、2着も金堀で、ダブリンは3着に沈み、前年の春の戸山開催以来、3シーズンぶりの敗戦を喫する。鴻雲との斤量差は、春の時と変わらなかったが、ダブリンのハンデが極量に近くなったことが響いていた。初めての、負けらしい負けだった。

 11月17、18日の戸山の開催は中9日で迎えたが、根岸での敗戦が打撃となったかのように、ダブリンは調子を崩していた。
 初日、ダブリンと金堀の2頭立てのレースでは、またしても金堀がスタート前に暴れ、競馬場から飛び出してしまうものの、ダブリンは単走もできずに無勝負となり、その後は出走さえしてこなかった。
 ダブリン不在となれば、後のレースは金堀と鴻雲のものとなる。
 初日に行われた2頭の直接対決では、出遅れながらも鴻雲が勝ち、二日目はそれぞれが1勝をあげた。
 気性難が金堀の成長を妨げていたこともあって、春のシーズンとは異なり、鴻雲の力が金堀を優るようになっていた。

 翌1884(明治17)年春のシーズンでは、ダブリンの体調は元にもどらず、鴻雲も不調だった。
 4月26、27、28日に行われた戸山競馬場の最後の開催は、プレ上野・不忍池競馬の色彩を帯び、賞金も増額されていて、新馬も登場してきた。
 中でも一番手と目されたのが初音で、二番手には黒雲があげられる。初音は、当時の競馬に深く関与していた三菱の副社長・岩崎弥之助の所有で、黒雲は、宮内省所属で、名義は大河内正質だった。

 初日、早速、ダブリンとこれらの新馬との対戦となったが、初音が勝ち、2着には黒雲が入り、ダブリンは3着に沈んだ。三日目にもダブリンは、黒雲に敗北を喫している。
 ダブリンは、金堀や鴻雲が相手の2レースでは、僅差とはいえ勝っていたので、不調だったとはいえ、新馬2頭には力負けといってよかった。じっさい初音は、三日目の華族有志者賞盃の1勝を加え、この開催のチャンピオンとなっている。
 鴻雲も、金堀を破った1勝のみに終わり、金堀は3戦っして未勝利だった。
 ちなみに、この開催の金堀の名義は伊藤博文となっていた。伊藤は、1880(明治13)年6月、ニッポン・レース・クラブの第 1 回開催から、時折馬主としても名を出していたが、馬主運が悪く、記録に残る限り、その名義の馬が勝鞍をあげたことは一度もなかった。

 戸山に続いて、5月7、8、9日には根岸の開催が行われたが、出走メンバーは、ダブリン、初音、鴻雲、金堀、黒雲の他には3〜4頭となり、雑種馬は3レースしか行われなかった。
 その中で、二日目のチャンピオン決定戦に勝ったのが、やはり初音だった。ダブリンは、三日目の撫恤(開催未勝利)戦をようやく勝つという成績に終わり、初日に行われたもう一つのレースは、黒雲が勝馬となっている。

 この年の春のシーズンを見る限り、新馬が旧勢力を打ち破っていくというこれまでの傾向が続いたことになった。
 だが後から振り返れば、初音や黒雲の活躍はこの時だけだったので、彼ら新馬の活躍は、ダブリンや鴻雲の不調に助けられた面が大きかったといえよう。

 秋のシーズンは、11月1、2、3日に、上野・不忍池競馬場での第1回開催を迎えるが、これまでも何度もふれたように、すでに競馬開催は、国家的行事になっていた。
 初日、第7レース・農商務省賞典、距離1マイル、雑種馬の「最壮馬」のレースには、ダブリン、鴻雲、金堀の3頭が出走してきた。このレースでは鴻雲が、直前の日本馬「最壮馬」の岩川を11秒も上回る2分6秒のタイムで勝ち、銅製花瓶を獲得する。2着は金堀、ダブリンは最下位の3着だった。
 ダブリンは、二日目第3レース・各国公使賞盃では、初音を下して勝ったものの、三日目第4レース・チャンピオン戦では、鴻雲に敗れて2着に終わり、ついに立ち直ることができないまま、この開催で競馬場を去っていった。

 11月11、12、13日には、中8日で根岸開催を迎えるが、春に続いて雑種馬は、3レースしか行われなかった。
 三日目のチャンピオン戦 Half-Bred Handicap は5頭立となり、鴻雲が制している。二日目のレースでは、半ばでハナに立った鴻雲を、直線に入って金堀が追い込んで勝ってはいたが、肝心のレースでは、実力通りの結果となっていた。

 この秋のシーズンの雑種馬の勢力地図は、チャンピオンが鴻雲、それに金堀が続くというものだった。

 ダブリンは、1883(明治16)年春までは、他を圧倒する断然の成績を残しているが、その年の秋のシーズンに体調を崩したことから、急に下降線をたどり始めてしまった。
 翌年春のシーズンには、戸山でチャンピオン戦を勝てず、根岸でも三日目の未勝利戦でようやく勝鞍をあげた程度で、秋になっても、不振から立ち直ることはできなかった。
 第1回の不忍池競馬が開催されたのち、引退が決断され、種牡馬として400円で軍馬局に購入された。ケンタッキー産のサラブレッドの血を引き、1883年春のシーズンまでに見せた強さから考えれば、低い評価だったが、おそらく馬主の西郷従道が、軍馬局に便宜を図ったものだろう。
 競走生活は、1882(明治15)年春のシーズンから足掛け3年、6シーズンにわたり、21戦15勝の生涯戦績を残している。
 だが残念なことに、種牡馬生活に入ることはできなかった。最後の出走から1ヶ月も立たずして、死亡してしまったからである。

 またダブリンだけでなく、鴻雲、金堀といった馬たちも、1884(明治17)年秋のシーズンを最後に、競馬場の舞台から消えていく。

 このような雑種馬の蹄跡を見ると、日本馬が4〜6年以上走り続けるのに対して、2〜3年程度の短期間で終わってしまうのが、その競走馬生活の一般的傾向だったことが浮かび上がってくる。
 おそらく、育成、調教技術が、まだ暗中模索の状態であったのが原因だったのだろう。