第16回  英(ハナブサ

 明治10年代後半は、最強の日本馬として岩川の名が全国に轟いていた(第9回参照)。
 1886(明治19)年4月23、24、25日に行われた不忍池の春季開催は、年明けから「新馬」が入厩しはじめるなど、岩川への挑戦の場として注目を集めていた。そこには、本来の意味での新馬だけでなく、各地の競馬会で活躍を見せた馬たちも含まれていた。

 初日第2レース新馬戦、距離1000m、賞金は高額の300円、ここが岩川への挑戦者決定の場となった。
 出走してきたのは5頭。その中に、前年1885(明治18)年、函館の北海共同競馬会社第5次秋季会で、本田親秀の名義、飯田藤作の騎乗でデビューし、3勝をあげる活躍をみせていた英(ハナブサ)がいた。

 この馬、とんでもなく強かった。
 英は、他馬とは次元の違ったスピードを見せつけ、この新馬戦を圧勝した。
「この馬なら、西洋の競馬に出走しても、さほどひけをとらないだろう」、という論評もあったが(『絵入自由新聞』明治19年5月16日)、それもまんざら誇張とは思わせない鮮烈なデビューだった。
 このレースぶりに、翌二日目、英が登録したレースでは、他馬が出走を取り消し、英の単走となった。

 そして三日目、第8レースのチャンピオン戦が、待ちに待った英と岩川との対決だった。2頭の強さの前に、他馬は出走を回避し、文字通りのマッチレースとなった。
 ハンデは、英131ポンド(59.4kg)、岩川144ポンド(65.3kg)。岩川も、競走馬生活の絶頂期にあった。
 レースは、岩川が先行、声援で場内は沸いたが、結果はあっけなかった。斤量差があったとはいえ、英があっさりと岩川を交わし、力の差を見せつけたレースぶりで勝った。レース後、英に対して、拍手が「暫しは鳴りも止ま」なかったという。
 3戦3勝、スター馬の誕生だった。

 開催直後、早速、競馬に熱心だった英国代理公使トレンチP.le.Poer.Torenchが、900円で英の購入を希望し、またある「外国人」も、上海の競馬に出走させたいと、1500円で譲渡を申し込んだが、馬主は応じなかった。

 英は、明治期の北海道日高の著名な馬産家・大塚助吉が、受胎のまま新冠御料牧場から払い下げを受けた牝馬から生まれた「日本馬」で、青毛、4尺5寸8分(138.8cm)。写真に残されている首さしがすっきりしているその馬体からから、またレースぶりから見て、到底日本馬とは考えられず、体高は低いが、トロッター種などが配合された雑種馬だったと思われる。
 この不忍池開催では、佐野延勝の名義、騎乗は函館から引き続いての飯田藤作だった。佐野は、共同競馬会社創設の中心人物の一人で、軍馬局長ともなった旧姓・松村延勝のことで、飯田は、函館や札幌の競馬で、馬主や騎手として活躍していた。

 英が、ニッポン・レース・クラブに出走したのは、この年の秋の開催、10月26、27、28日のこととなった。
 懸念材料があるとすれば、芝への適性と体調だったが、誰もがそんなことは問題にならないと思っていた。

 初日第2レースの中国馬との混合戦Navy Cup、距離3/4マイル、5頭立では、もちろん英が本命で、他の有力馬としては、岩川と芝のチャンピオン墨染(第10回参照)が出走していた。
 英は、スタートからハナに立ち、墨染は中団、岩川は最後方からの展開となる。英は快調に飛ばし、そのまま直線に入り、岩川が追い込んできたが届かず、1馬身差の1分37秒で、英が勝利を収めた。墨染は3着だった。
 この開催から、英の名義は大西厚(馬車製造業)、騎乗は宮内省御厩課の京田懐徳となった。以後、引退まで、原則としてこのコンビで登場する。
 まずは、評判通りの順当な勝利のように見えた。

 ところが、同日の第7レースNegisi Stakes、距離も同じ3/4マイル、6頭立では、英は、ここでもハナを切っていたが、直線でずるずると後退し、岩川の3着に沈んでしまった。
 勝タイムは1分37秒1/2であったから、だらしない負け方だった。もちろん賭けも波乱となった。

 そして二日目第2レース県庁賞盃、1マイル、3頭立。この県庁賞盃は、沖守固・神奈川県知事がカップを寄贈したもので、1872(明治5)年秋季開催までさかのぼる由緒のあるレースだった(「文明開化に馬券は舞う」第28回参照)。
 前日の敗戦はあっても、英がやはり本命に推される。
 ここでもハナを切り、直線に入るまでリードしていて、誰の目にも楽勝と見えた。ところが、残り100mで墨染に並ばれ、ゴールまでの追いくらべとなったが、墨染の2分14秒のクビ差に敗れてしまった。
 この熱戦に、観客は大喝采したという。
 賭けは、また波乱となった。

 さらに三日目第2レースMembers' Plate、5ハロン、6頭立。
 ここも、二日目と同じようなレースとなった。先行した英が、残り100mのところで、直線追い込んできた岩川に交わされ、1/2馬身差で敗れた。距離が短くなればと思わせたが、やはり末があまいのに変わりはなかった。
 この3戦を見ると、英は、逃げている間はよいが、一旦並ばれると脆い面があった。
 結局、この開催での英の成績は4戦1勝、2着2回、3着1回、岩川に2敗し、墨染にも敗れるなど、その前評判が高かっただけに、一層期待はずれの結果となった。
 初めての芝に戸惑ったり、あるいは仕上げ途上ぐらいでは勝って当たり前のスピードをもっていたから、よほど調子が悪かったと思われる。

 続く11月20、21日の不忍池開催では、少しでも調子が上がれば、やはり他馬では問題にならないことを証明する。
 初日第7レース不忍景物、距離1200m、7頭立には、英のほか、岩川、そして、根岸秋季開催で中国馬も破って2勝をあげていた播磨も出走していて、今でいえばオープンクラスのレースであった。
 英が、あっさりと逃げ切って1分37秒で楽勝し、2着が播磨、3着が美雲という馬、岩川は着外に終わる。
 美雲は、この1886(明治19)年の春のシーズン前は、新馬では一番馬との評判を呼んでいた馬だった。
 二日目第4レースのチャンピオン戦、秋季重量負担景物、距離1600m、6頭立では、英は150ポンド(68kg)を背負っていたが、2分17秒1/2で他馬を寄せ付けなかった。2着には135ポンド(61.2kg)の美雲が入っている。

 明けて1887(明治20)年春のシーズンを迎える。
 今度は根岸でも、圧倒的な強さを示し、5月26、27、28日の春季開催では3戦全勝だった。
 初日第6レース、横浜賞典景物、距離約1700b、4頭立、二日目第3レース、中国馬との混合の婦人財嚢、距離1/2マイル、4頭立、三日目第2レース、春季景物、距離1マイル1/2、3頭立と、距離の長短を問わず、芝にも慣れて、不安がなくなっていた。

 続く6月4、6日の不忍池春季開催。
 初日第7レース、皇族下賜賞典、距離1600m、4頭立でも、英は2分10秒であっさりと逃げ切り、岩川や美雲らを破った。
 ところが、チャンピオン戦である二日目第9レース、春季重量負担景物、距離1800m、6頭立では、播磨が600m前後で英を交わして先頭に立ち、そのまま押し切って2分45秒で制した。2着岩川、その後に英だった。英は、やはり一旦交わされると脆かった。
 播磨は雑種馬であった可能性が大であり、これで8戦7勝と「日本馬」しては抜けた力を示していた。その一敗は英に喫したもので、ここで、その借りを返した格好となる。2頭は、ライバルとなって戦いを繰り広げるはずであった。

 だが結局、この敗戦が、英の最後のレースとなった。唐突で余りにも短い、あっけない競走馬生活だった。
 「他に匹敵なきより」というのが、表向きの理由だった。
 明治10年代後半、英や播磨など、雑種馬との疑いが濃厚な馬が「日本馬」として出走したことによって、競走体系が崩れはじめようとしていて、ニッポン・レース・クラブと共同競馬会社は、その対策に乗り出していった。
 なおこの日本馬の偽籍問題に関しては、3月11日配信の「文明開化に馬券は舞う 第32回」で述べる。
 その対策の第一段として、次の1887(明治20)年秋のシーズンから、双方のクラブは、英、播磨の出走を拒否した。この処置によって、英は引退を余儀なくされたのが実情だった。

 1889(明治19)年春以降、3シーズンの英の成績は、14戦10勝。
 デビュー時から見せつけた圧倒的なスピードに加え、成績以上に、よほどのプラスαの華があったようで、鮮烈な印象を残し、人々は後々まで「他に匹敵なき未曾有の駿馬」と語り継いだ。
 1888(明治21)年5月、種牡馬として新冠御料牧場へ送られ、その後大塚の牧場に移って、そこで死んだ。両牧場とも、競馬界に多くの活躍馬を送り出しているから、その中に英の産駒が含まれていたかも知れない。