第17回 播磨 

 前回紹介したように、播磨という馬が、1887(明治20)年6月、不忍池の春季開催で、英(ハナブサ)を破っていた。
 播磨は、南部産の日本馬と称していたが、圧倒的なスピードと強さを誇り、雑種馬との疑念が非常に強く持たれていた馬だった。

 デビューは1886(明治19)年10月26、27、28日の根岸春季開催で、名義は、ニッポン・レース・クラブに尽力を惜しまなかった神奈川県知事・沖守固、騎乗は宮内省御厩課の名騎手岡治善だった。
 この開催では、日本馬の出走数がさらに減少していた。品種に疑問のある2頭、つまりこの播磨と英があまりに強すぎることも、その要因になっていたという。
 日本馬の単独レースは4、日本馬と中国馬の混合レースが11となり、新馬戦も中国馬との混合戦となった。
 播磨は、初日第1レース、その新馬戦の試競賞典Trial Plate、距離1周(約1700m)、6頭立に出走してきた。
 予想通りの大楽勝劇だった。スピードの違いでハナに立つと、他馬は全くついてこれず、2分15秒で圧勝する。
 二日目第4レース、これも中国馬との混合戦の宮内省賞盃、距離1/2マイル、6頭立で、ここでもスタート直後からハナに立ち、そのまま2馬身差をつけて1分0秒3/4の好タイムで楽勝した。
 この二つのレースは、今でいえば重賞レースに相当する。そこで播磨は、日本馬離れをした圧倒的な勝ち方を見せ、開催前からもたれていた雑種馬ではとの疑念はさらに強まった。
 この開催後には、対処が求められられたが、この時は手を打つことができなかった。

 したがって根岸に続く11月20、21日の不忍池・秋季開催にも、日本馬として出走した。播磨の相手になる「日本馬」は、英しかいなかった。
 前回も紹介した初日第7レース不忍景物、距離1200m、7頭立、今でいえばオープンクラスのレースが、英と播磨の初めての直接対決の場となる。
 当時は、体高が斤量の基準となっていて、4尺5寸8分(138.8cm)の英が138ポンド(62.6kg)、それより大きい播磨が148ポンド(67.1kg)を背負っていた。
 ここは、10ポンドの斤量差もあって、英が、あっさりと逃げ切って1分37秒で楽勝し、播磨が2着だった。
 後からふりかえれば、この敗戦が播磨の唯一の黒星となった。
 二日目第2レース観客賞盃、距離800m、英がいなければ播磨の楽勝で、勝タイム1分4秒だった。
 騎乗は引き続き岡治善、名義は当時の大馬主の大谷金次郎(洋服商)に代わっていた。

 翌1887(明治20)年春のシーズンを迎えるにあたって、当然、播磨の出走資格が問題となっていた。
 だが5月17、18、19日の根岸・春季開催でも、日本馬として出走する。
 名義は、鹿鳴館時代の競馬における宮内省の中心人物、大河内正質(この当時は麹町区長)、騎乗は、宮内省御厩課の京田懐徳だった。京田は、日露戦後の馬券黙許時代には、各競馬倶楽部の役員となり、また目黒競馬場付近に厩舎を構える存在となる。

 播磨は、まず初日第3レース、ヴィクトリア英国女王の在位50周年を記念したカップ戦、ついで二日目第2レースと、軽々と2勝をあげた。しかし、この勝利で、三日目第6レースのチャンピオン戦は、極量のハンデが課せられたため、出走を回避する。
 播磨は、前年秋よりも成長しており、向かうところ敵なしの観があった。英との対戦が期待されたが、この開催では実現しなかった。

 続く6月4、6日の不忍池・春季開催でも、やはり日本馬として出走してきた。
 名義は宮内省御厩課の木村介一、騎乗は岡治善にもどっていた。木村は、騎手としても活躍し、馬券黙許時代は、各競馬倶楽部の役員、馬主として活躍することになる。
 播磨は、初日第4レース上野景物に姿を現す。
「南部産とあれど、雑種にまぎらわしきとの説起こり、之と競走するものなく」、単走となった。もはや、誰もが無駄な対戦をしようとはしなくなり、播磨の相手となるのは、英ただ1頭となった。

 二日目第9レース・チャンピオン決定戦の春季重量負担景物、距離1800mが、播磨と英の2度目の対決の場となった。
 英がハナを切ったが、600mを過ぎた辺りで、今度は播磨がハナを奪うと、そのまま2分45秒のタイムで逃げ切った。
 播磨は、ここまでの3シーズン8戦7勝、敗れたのは英1頭だけだったが、その英にも、ここできっちりと勝っていたのだから、「日本馬」としての強さは抜きんでていた。

 しかし、雑種馬の播磨が、「日本馬」として出走する限り、その強さの意味はゼロに等しかった。また日本馬のレースの意義を奪い、競馬の根幹を崩してしまうことになる。(「文明開化に馬券は舞う 第32回」参照)
 ここで共同競馬会社の役員は、次の1887(明治20)年・秋季開催への播磨の出走を許可しないことを決定し、ニッポン・レース・クラブもそれに倣った。
 播磨は引退を余儀なくされる。
 そして共同競馬会社は、その秋季開催から、番組を雑種馬重点へと転換する。それまでも「偽籍」の問題が積み重なっていたところへ、この播磨、そして英の存在が、その措置の決定打になったのだった。

 播磨の名義が、鹿鳴館時代の競馬における中心的人物だった沖守固、大谷金次郎、大河内正質、木村介一であったことも、問題の深刻さを物語っていた。この播磨の「偽籍」の問題は、よほどの論議を呼んでいたらしく、後々まで繰り返し持ち出された。

 播磨も英も、西洋の血をいれながら「日本馬」と名乗り、その優秀性を誇るという、単純ながらも二重に屈折した形で、鹿鳴館文化を象徴するような存在として、足早に競馬場を駆け抜けていった。
 種牡馬となった英と異なって、播磨のその後の消息はわからない。