第18回 日光 


 英(ハナブサ)と播磨が、ニッポン・レース・クラブの根岸競馬場に初めて登場したのが、1886(明治19)年10月26、27、28日の秋季開催のことだった(英と播磨については、第16、17回参照)。

 ここに、日光という栗毛、おそらく下総御料牧場系のアラブの血脈をもつ雑種馬がデビューしていた。
 名義は当時の大馬主大西厚(馬車製造業)、騎乗は宮内省御厩課の名騎手京田懐徳。1887年秋の引退まで、この二人のコンビであった。
 ちなみにこの二人は、この根岸の秋季開催からの英のコンビでもあった。

 この頃、ニッポン・レース・クラブでは、頭数の減少から雑種馬のレースの実施が危うくなっていた。またその事情は、共同競馬会社でも似たものであった。
 そこで宮内省が、積極的な支援に乗り出し、この1886(明治19)年秋のシーズンから、両クラブに対して、雑種馬の購入に対して便宜をはかることになった。質の高い雑種馬を安定的に供給し、競馬の挽回策につなげようというものだった。
 その第1期生として、下総御料牧場からの8頭が1頭200円で払い下げられ、
希望者に抽籤、配布する仕組みで、籤(くじ)馬と呼ばれる。
 日光は、その内の1頭だった。

 ところが、日光だけが希望者がなかった。やせ形で足が長く、一見して走りそうにない馬体をしていたからであった。
 そこで仕方なく、会員が資金を出し合って共有の形をとり、出走にこぎつけ、したがって名義の大西厚は、共有者の代表として名を出していたことになる。
 根岸競馬場に在厩中は、ニッポン・レース・クラブを代表する厩舎を構えていたキングドン N.P.Kingdon が、日光の世話にあたっていた。

 日光のデビュー戦は、初日の第3レース、Half-Bred Sweepstakes 、距離1/2マイル、8頭立。
 スタート後、すぐハナを切り、そのままリードを広げる一方という圧勝劇であった。勝タイム58秒1/2。当時、1/2マイルで1分を切るのは、優秀な時計であった。
 ちなみに、この開催の初日の第1レースから第3レースまでを、播磨、英、日光の3頭が相次いで勝っていたから、圧巻のレースが続いていたことになる。

 日光は、貧弱な馬体から開催前には、評判にあがるどころか、逆に最低の評価だったので、この勝ちぶりは驚きを与え、もちろん賭けも大波乱となった。

 二日目の第3レース、Simofusa Stakes 、距離3/4マイル、7頭立では、3着に終わるが、雑種馬のチャンピオン戦である三日目、第5レース、Half-Bred Handicap 、距離5ハロン、6頭立では、1分14秒3/4で楽勝した。
 他の馬が出遅れたとはいえ、スピードの違いが歴然だった。

 続く11月20、21日の共同競馬会社の秋季開催でも、日光は強かった。
 初日、第1レース、宮内省賞典、距離1000mを、1分13秒で楽勝する。
 さらに二日目の第7レース、日本馬と雑種馬との混合のチャンピオン戦の優勝賞盃、距離1周(約1600m)、3頭立では、1回も鞭を使わずに圧勝し、銀の大盃を獲得する。タイムも、2分3秒と優秀だった。

 このように日光は、購入時には誰にも見向きもされなかったが、いざ走ってみると、根岸と不忍池の雑種馬のチャンピオンの地位についた。
 競馬場での日光には、華があり、ダブリン以来の雑種馬のスターとなった(ダブリンについては、第14、15回参照)。
 「伯楽は常になし」というのが、日光のデビューのエピソードを紹介した『毎日新聞』(明治20年6月12日号)の見出しだった。

 翌1887(明治20)年の春のシーズン。
 日光は、体調が万全ではなく、5月中旬のニッポン・レース・クラブの開催をパス、6月4、6日の共同競馬会社の開催だけに出走してきた。
 初日の第5レース、観客賞盃、距離1000m、2頭立は、1分11秒で勝ったが、同日、第8レース、春季景物、距離1600m、3頭立では、敗れてしまう。体調不充分だったとはいえ、デビュー以来2敗目だった。
 だが二日目の第7レース、チャンピオン戦の雑種馬重量負担景物、距離1800m、3頭立では、その勝馬に雪辱して、2分34秒で勝ったのはさすがだった。

 つぎの秋のシーズンは、10月25、26、27日がニッポン・レース・クラブ、11月11、12日が共同競馬会社という開催日程だった。

 根岸競馬場、初日の第2レース、日本馬と雑種馬との混合戦 Japan Stakes 、1周(約1700m)、3頭立。
 ここでは、スターライト Starlight という馬が本命だった。スターライトは、日光が不出走だったこの年のニッポン・レース・クラブの春季開催でデビューし、チャンピオン戦の雑種馬優勝賞典を勝ち、雑種馬の一番馬となっていた。
 スターライトは、鋭く追い込んでくるそのレースぶりから評価が高かったが、ここでは前評判を覆して日光が、2分2秒3/4で楽勝した。
 スターライトの名義は、当時、ニッポン・レース・クラブの有力な厩舎のオーナーであったヒューゴ Hugo で、日光と同じ1886(明治19)年秋季の籤馬だった。
 この2頭が出現しただけでも、宮内省の支援策が充分成果があったことになる。

 二日目の第2レース、Kunaisho Cup 、1マイル1/4、3頭立は、日光とスターライトとの再戦となり、注目を集める。今度は、初日のレースぶりからも日光が本命に推される。
 日光がハナを切り、スターライトに2馬身の差をつけてスタンド前を通過する。スターライトは、徐々に差を詰めながら周回し、直線に入ると、ゴール前100mで日光に並びかけ、そこから逆に2馬身差をつけ、2分27秒で勝った。
 日光が、初めて力負けしたレースだった。

 三日目の第2レース、雑種馬のチャンピオン戦の Autumn Stakes 、1周(約1700m)、4頭立も、2頭の対決となった。
 これまで通り、スタートから日光がハナに立つと、道中緩やかなペースに落して逃げ、スターライトの追込みを1馬身しのいで、2分2秒のタイムで勝った。
 だが、スターライトのスタートが悪く、それがなければ、と思わせる内容だった。
 スタミナ勝負になると、スターライトに分があることを明らかにした2戦だった。

 続く不忍池開催では、スターライトが不出走であったので、日光の独り舞台となった。
 初日の第6レース、「当日第一の名誉品」である皇族下賜賞典、距離1400mには、4頭が出走を予定していたが、3頭が「とても競う可からず」と出走を取り消し、日光の単走となった。悠々として、1分50秒で駆けたその姿は、「横綱の土俵入とも云」った雰囲気を漂わせるものだったという。
 二日目の第7レース、各国公使賞盃、距離1600m、4頭立も、2分6秒で圧勝する。この開催で、観客が最も喝采したのが、このレースでの日光の勝利だった。日光の人気は、依然として続いていたのである。

 日光の成績は、ここまで13戦10勝。逃げの日光に対して、追い込みのスターライトの2頭の対決が、今後も期待されていた。

 だが、日光は、ここであっけなく引退してしまう。
 1887(明治20)年秋のシーズン終了後、この優秀な成績を残した雑種馬が、驚くことに、乗馬あるいは馬車馬(hack)に転用されてしまったのである。
 丸1年、3シーズンだけの競走馬生活だったが、引退の理由は、まったく分からない。
 翌1888(明治21)年4月には、日光の評判を聞きつけた大阪の豪商・鴻池家からの乗馬にしたいとの懇望に応じて譲渡された。
 その後の消息は不明である。

 日光の後のチャンピオンの座についたのが、スターライトだった。
 1888(明治21)年、5月12、13日の共同競馬会社春季開催でも、各国公使賞盃、宮内省賞盃の2勝をあげ、続く5月21、22、23日のニッポン・レース・クラブの開催でも1勝を加えていた。
 だがスターライトも、この春を最後にして、3シーズンという短い期間で競馬場を去っていく。引退の理由も、その後の消息も不明である。
 スターライトも、ダブリンや日光と並んで、後々まで横浜の居留民に記憶されていたから、その成績以上の強さを感じさせた馬であったのだろう。

 当時の雑種馬の蹄跡を見ると、日本馬が4〜6年以上走り続けるのに対して、2〜3年程度の短期間で終わってしまうのが一般的傾向だった。おそらく、育成、調教技術が、暗中模索の状態であったのが要因だった。
 だがそれでも、日光とスターライトの競走馬生活は、いかにも短かった。大きな故障か、番組上、出走できなくなる制限が加えられた以外は考えられないほどの唐突な引退だった。

 このようにして、1886(明治19)年から1887(明治20)年にかけて登場した「日本馬」の英、播磨、雑種馬の日光、スターライトといった華のある馬たちが、足早に競馬場を駆け抜けていった。

 明治20年代は、日本馬、雑種馬ともに新たな時代を迎えることになる。