第19回 シヤンベルタン Chambertin 前編

 1887(明治20)年春のシーズン後、「日本馬」の英(ハナブサ)と播磨が引退を余儀なくされ、かつての最強の日本馬、岩川も同年秋のシーズン後、死亡した(「失われてしまった馬たち」第8、9、16、17回参照)。
 この馬たちの跡を継ぐかのように登場したのが、シヤンベルタンだった。
 岩川にも優るとも劣らない戦績と、鹿鳴館時代の競馬における唯一のある記録を打ち立てた馬であった。
 だが、名を後世に残すことができなかったのは、走った時期が日本馬にとって、悪かったとしかいいようがなかった。

 シヤンベルタンは、1884(明治17)年に、新冠御料牧場で生まれている。毛色は青毛で、体高は4尺7寸7分(144.5cm)と、日本馬としては大柄だった。

 1888(明治21)年、10月29、30、31日に行われた根岸競馬場の秋季開催において、ニッポン・レース・クラブの北海道産日本馬のくじ馬として、タッタース Tatters の名でデビューした。
  タッタースは、初日の北海道くじ馬限定の新馬戦を勝ち、その他にも1勝をあげ、後の姿を予感させるデビューを飾った。
 くじ馬制度は、日本馬の偽籍問題に悩んだニッポン・レース・クラブが、その対策として採用したものだった(「文明開化に馬券は舞う」第32回参照)。
 ちなみにシヤンベルタンは、フランスの高級ワインの銘柄名で、タッタースは、ボロの服の意だと思う。

 続く、11月24、25日の共同競馬会社の秋季開催。
 タッタースが、初日に1勝をあげて臨んだのが、二日目の婦人財嚢競走だった。
 距離は、幕末以来の横浜の慣例にしたがって、半マイル。出走は3頭で、タッタースにはアンドリース Andries が騎乗し、他の二頭は日根野要吉郎(宮内省御厩課)とカンプレドン Campredon がまたがった。三人も名手と謳われ、その手さばきも注目される。

 その中で勝ったのがタッタースだった。
 アンドリースは、タッタースを馬見所正面に索いていって、小松宮夫人頼子から財嚢(200円)を授与される。婦人財嚢は、鹿鳴館時代の競馬の象徴であり、開催最大の注目を浴びるレースであった(「文明開化に馬券は舞う」第26、27回参照)。
 明治20年代を迎え、時代は急転回、婦人財嚢を見つめる目は冷ややかなものになりつつあったが、それでもまだ華やかさは残されていた。財嚢授与式の際、「外国人一同は異口同音に祝意を表し」たという。

 タッタースは、翌年の婦人財嚢をシヤンベルタンの名で勝つが、不忍池競馬で実施された7年の間で、このレースを連覇したのはこの馬だけであった。
 また1891(明治24)年、1892明治(25)年と、ニッポン・レース・クラブの春季開催に行われた婦人財嚢も、連続して獲得し、それも根岸、不忍池の双方で連覇という偉業を成し遂げた。
 これももちろん、シヤンベルタン 1 頭だけであった。

 明けて1889(明治22)年春のシーズンは、ニッポン・レース・クラブが4月25、27、29日、共同競馬会社が5月11、12日という開催日程だった。
 ここからタッタースは、ネモー Nemo 名義となり、シヤンベルタンと改名した。ネモーは、明治10年代からの根岸の有力厩舎のオーナーの仮定名称である。
 このシーズン、シヤンベルタンは、圧倒的な強さを示した。

 まず根岸競馬場。
 初日に軽く1勝をあげ、二日目の婦人財嚢は2着となったが、その直後のレースでは、他馬が 127 〜 149 ポンド(57.6 〜 67.6kg)のところを、163 ポンド(73.9kg)を背負いながらも楽勝した。
 三日目のチャンピオン戦 Japan Champion は 、シヤンベルタンの抜けた力の前に他馬が回避し、単走となった。
 つぎのハンデ戦では、シヤンベルタンは、満量 full weight(註)の 180 ポンド(81.6kg)を課される。距離 は 3/4 マイル、8頭立で、他馬は 138 〜 150 ポンド(62.6 〜 68.0kg)だった。

(註)ハンデの上限。後には、この満量で勝って引退するのが名誉とされた。
 
 シヤンベルタンは、スタート後しばらくして先頭に立ち、残り 1/4 マイルでリードを拡げにかかった。直線、さすがに斤量が応え、追い上げられたが、そのまま1分43秒でゴールを駆け抜けた。
 ハンデが不安視されていたから、ネモーは勝利を大いに祝福されたという。
 5戦4勝、文句のない日本馬のチャンピオンとなった。

 続く不忍池開催は、まさに圧巻だった。
 初日の緒戦、4頭立の予定も、他馬が、「シヤンベルタンの勢に挫かれ」単走となった。それでも満場は大喝采したというから、シヤンベルタンが醸し出す存在感も相当なものとなっていた。
 2戦目も、170 ポンド(77.1kg)を背負って楽勝した。2着馬が 133 ポンド(60.3 kg)であったから、今季のシヤンベルタンの前には、斤量も問題でなくなっていた。
 そして二日目のハンデのチャンピオン戦、1600m、7頭立では、シヤンベルタンの斤量は、初日よりもさらに重い 175 ポンド(79.4kg)となるが、もちろん他馬を全く問題とせず、「一騎群を挺てて」、2分15秒 1/2 の楽勝劇を演じた。
 ちなみに2着馬は、 30 ポンド(13.6kg)も軽い 145 ポンド、その他の馬は133 〜 150 ポンド(60.3 〜 68.0kg)だった。

 シヤンベルタンは、3戦3勝、根岸から数えれば8戦7勝と、ほぼ完璧な成績を残して、春のシーズンを終えることになった。
 
 1889(明治22)年の秋のシーズンは、ニッポン・レース・クラブが10月29、30、31日、共同競馬会社が11月10、11日という開催日程だった。
 斤量との戦いを克服した春の勢いから見て、シヤンベルタンの相手になる馬はいないと思われた。だが、根岸では4戦2勝、不忍池では3戦1勝に終わる。

 根岸の二戦目では、中国馬に敗戦を喫し、シヤンベルタンが春とは異なるのではと思わせた。
 三日目の日本馬のチャンピオン戦では、その懸念が現実のものとなる。勝ったペンディゴ Pendigo の斤量が 130 ポンド(59.0kg)、シヤンベルタンは 150 ポンド(68.2kg)だった。
 だがシヤンベルタンは、それまでは差が 20 ポンド(9.1kg)以上あっても、ペンディゴを問題としていなかった。
 それに斤量は、これまでと比べれば軽い 150 ポンド。ベンディゴの成長があったにしても、本来の調子にあれば、まだ負けないはずであった。
 
 それでもシヤンベルタンは、この根岸の開催で、勲章を一つ加えていた。二日目の神奈川県賞盃 Kanagawa Cup を獲得したことで、その開催では3戦目のレースだった。
 神奈川県賞盃は、一時期の中断があったが、歴史を1872(明治5年)まで遡る由緒あるレースだった(文明開化に馬券は舞う 第28回参照)。
 この年の神奈川県賞盃は、出発時のように、県知事・沖守固夫人が花瓶一対の授与にあたった。騎手アンドリースは、花瓶を肩に掲げて退いたが、そのとき知人たちが、帽子を振り、フラーの声をあげて祝福したという。
 不忍池とは異なり、根岸では女性が、主役を演じる時代が続いていた中での勝利だった。

 本調子を欠いたまま、不忍池の秋季開催を迎える。
 初日の緒戦では、鹿鳴館時代の伝説の名騎手、大野市太郎が落馬する。
 それでも二日目、第5レースの婦人財嚢を連覇したのはさすがで、騎乗は前年に続いてアンドリースだった。
 共同競馬会社の婦人財嚢は、この年で終焉を迎えていたから、シヤンベルタンとアンドリースは、この時代の婦人財嚢の最後の勝馬であり、騎手となった。
 かつてなら大喝采を浴びていたはずなのに、寂しい幕切れだったといえよう。

 そして、第8レースのチャンピオン戦を迎えた。距離1600m、8頭立で、この開催で、デビュー戦を圧勝で飾っていた大山という馬が出走してきていた。
 大山は、雑種馬ではないかとの疑念が強く呈されていた馬で、ニッポン・レース・クラブでは、日本馬を北海道産に限定していたから、出走資格がなかったが、共同競馬会社では疑念があっても、出走可能だった。
 もし大山が、雑種馬であるなら、本調子を欠くシヤンベルタンの不利は明らかだったが、それでもシヤンベルタンへの期待は大きく、両頭が人気を分け合った。
 シヤンベルタンが先行し、それを大山が追走。2頭の力勝負となり、場内は沸いた。だがやはり、シヤンベルタンは大山の前に屈する。

 大山は、当時における競走馬生産の中心、下総御料牧場産であったから、その偽籍は、なおさら問題を孕んでいた。
 シヤンベルタンは、斤量だけでなく、この偽籍問題とも戦わなければならなかったのである。

(続く)