第20回 シヤンベルタン Chambertin 後編

 明けて1890(明治23)年の春のシーズンには、ニッポン・レース・クラブの4月30日、5月1、2日、共同競馬会社の6月1、2日の開催とともに、その間に第3回内国勧業博覧会附属臨時競馬会が挟まれていた。
 シヤンベルタンは調子を取り戻していた。
 
 まず根岸の開催では、前回ふれたように大山に出走権がなかったので、復調なったシヤンベルタンが、チャンピオンの座に返り咲いたのも当然だった。
 2戦2勝、この春のシーズンは、鹿鳴館時代の伝説の名騎手・大野市太郎が、ずっと騎乗した。

 ついで5月16、17、18日の第3回内国勧業博覧会附属臨時競馬会を迎えた。
 第1回博覧会は、1877(明治10)年、上野を会場として開催されていた。、折からの西南戦争の勝利を高らかに謳うかのように、今後の近代化日本を具体的に提示し、かつ体験させる意味をもった国家行事であった。
 第1回の時は、レースを欠いたが馬匹の「品評」が行われ、そこからはボンレネー、1881(明治14)年の第2回からは、ダブリン、鴻雲といった競馬で活躍した雑種馬が出現していた。(「失われてしまった馬たち」第12〜15回参照)
 この第3回博覧会では、「品評」だけでなく、レースが実施されることになり、1年前から準備が進められた。全国から日本馬、雑種馬の新馬、古馬を一同に会して、それぞれのチャンピオンを決定しようというものだった。

 シヤンベルタンも、有力馬として出走し、期待に応えて初日に1勝をあげた。
 2走目が、三日目の優等賞盃、距離 3/4 マイル、8頭立で、日本馬及び雑種馬の新馬と古馬による文字通りのチャンピオン決定戦だった。
 勝ったのは雑種馬の「日本馬」大山で、タイム1分52秒 1/2 、シヤンベルタンは 3/4 秒離された3着に終わった。
 大山がほんとうに日本馬であったならば、快挙であったが、「偽籍」である限り、この時代の競馬の理念を無に帰してしまうものであった。

 そして、つぎの不忍池の春季開催では、シヤンベルタンは、ここでも初日に1勝をあげたが、二日目のチャンピオン戦では、再び大山の前に屈した。大山の前には、全く歯が立たなかった。
 大山の「偽籍」は、競馬の根幹を揺るがすものであったから、当然大きな問題となっていた。ようやくここで、決断が下され、秋のシーズンからは、出走が拒絶された。

 1890(明治23)年秋のシーズンは、10月30、31日、11月1日がニッポン・レース・クラブ、11月15、16日が共同競馬会社という開催日程だった。
 大山がいなければ、シヤンベルタンは両場で無敗で駆け抜けると思われたが、根岸で初日、二日目と2戦をとりこぼしてしまった。
 だがその後は、チャンピオン戦を含む2勝、中2週で迎えた不忍池の秋季開催でも、3戦3勝と圧倒した。終わってみれば力を示した結果となった。
 騎乗したのは、春から不忍池の1走目までは大野市太郎で、後の2走はアンドリースだった。

 明けて1891(明治24)年春のシーズンも、シヤンベルタンの好調は続いていた。
 4月28、29、30日の根岸の開催では、初日に軽く2勝をあげ、二日目の婦人財嚢、距離 1/2 マイル、7頭立に臨んだ。これをアンドリース騎乗で制して、共同競馬会社とニッポン・レース・クラブの双方で財嚢を獲得した史上初、そして最後の馬となった。
 三日目の日本馬優勝賞典、北海道ハンデカップは、シヤンベルタンも出走可能だったが、負担重量を嫌って出走してこなかった。

 続く5月9、10日の不忍池の開催では、初日の第2レース・くじ馬賞典と第3レース・各国公使賞盃を連勝する。
 二日目の第3レース・日本麦酒醸造会社賞盃には、昨年デビューした中では一番馬的存在だった北天という馬も出走してきたが、全く問題としないで、シヤンベルタンが楽勝した。
 ハンデが重くなりすぎて、優勝戦には出走してこなかったが、それを制したのが北天だったから、今回の競馬中「第一等の勝馬」がシヤンベルタンという評価も当然だった。
 根岸以来6戦6勝、1889(明治22)年春以来、再び押しも押されもしない存在となった。

 1891(明治24)年秋のシーズンは、11月4、5、6日のニッポン・レース・クラブの開催から始まる。
 ここでの日本馬のレースは、初日は1レース、二日目は中国馬との混合戦が2レース、三日目2レースとなっていて、春は日本馬だけで7レースだったことからすると、減らされたことになる。
 シヤンベルタンは、初日のレースでは、北天にゴール寸前で交わされてしまい、新旧交代かと思わせたが、まだそう判断するには早かった。
 二日目、日本馬と中国馬の混合の麒麟麦酒挑戦賞盃 Kirin Beer Challenge Cup 、距離 1/2 マイル、5頭立では、スタートからハナをきって、1分1秒で楽勝する。
 三日目、日本馬優勝景物 Japan Champion 、1マイル 1/4 、5頭立でも、スタートから先行し、前年の内国勧業博覧会附属臨時競馬会で2勝をあげていた鬼小島に追い込まれたが、1/2 馬身差をつけて、2分50秒で制し、チャンピオンの座を引き続き守った。3着が北天だった。

 続く12月5、6日の不忍池の開催からは、名義が、これまでのネモーからタケダに代わった。タケダは有力馬を所有していたが、どういった人物かは、現在のところまで不明である。
 初日の緒戦のレースでは、シヤンベルタンは2着入線し、勝馬から妨害を受けたと異議を申し立てたが、裁定は却下された。
 これに不満なタケダは、シヤンベルタンだけでなく、雑種馬の活躍馬ヤングオーストラリアなど、全ての持馬を引き上げてしまった。当然、シヤンベルタンはその後のレースには出走しなかった。
 また不忍池競馬は、翌1892(明治25)年で終焉を迎えるが、その春秋開催にも、シヤンベルタンは登場してこなかった。

 したがって、1892年春秋のシーズンは、ニッポン・レース・クラブだけの出走となった。シヤンベルトンの名義はネモーにもどっていた。
 この年の番組編成で、日本馬が出走可能なのは、春季開催は、初日が2レース、二日目が4レース(内1レースが中国馬との混合)、三日目3レース(すべて中国馬との混合)の計7レース。秋季開催は、初日が1レース、二、三日目が中国馬との混合のそれぞれ 1 レースの計3レースとなった。
 このなかには、くじ馬の新馬や未勝利のレースも含まれていたから、シヤンベルタンら古馬にとって、春はまだしも、秋は出走可能レースがほとんどなくなってしまった。

 4月28、29、30日の春季開催では、二日目の婦人財嚢を、昨春に続いて勝ち、ニッポン・レース・クラブ、共同競馬会社の双方で連覇をするという快挙を成し遂げる。騎乗はピアソン Pearson だった。
 同日の、中国馬との混合の麒麟麦酒競走賞典にも勝鞍をあげていたが、その他のレースには出走してこなかった。

 秋の10月31、11月1、2日の開催では、三日目の中国馬との混合の秋季ハンデカップ景物にのみ出走し、勝鞍をあげた。

 翌1893(明治26)年、春季開催にエントリーはしていたが、出走せず、そのままシヤンベルタンは、9歳(満年齢)で競馬場から姿を消した。
 当時の9歳は、まだ競走馬としてそれほどの年齢でもなかったから、いかにも尻切れトンボで消化不良の感があった。
 だが、日本馬のレースが消滅に向かっていたのでは仕方がなかった。

 足掛け6年に及ぶ成績だけを振り返れば、かつての鎌倉や岩川には優るとも劣らないものをあげ、特に1899(明治22)年春のシーズンは、圧倒的なものであった。
 明治20年代、次第に競馬における日本馬のレースの存在意義が薄れていたから、高い評価が受けられなかった。走った時期が悪かったとしかいいようがなかった。
 それとも関連して、馬匹改良においても、日本馬の種牡馬の価値はさらに後退していたから、シヤンベルタンが、仮に種牡馬となっていたにしても、その後の運命は厳しいものしか待ち受けていなかったはずである。