第21回 ベンディゴ Bendigo

 1889(明治22)年、ニッポン・レース・クラブの秋季開催の日本馬優勝賞典で、前々回、前回と紹介したシヤンベルタンを破っていたのがベンディゴ Bendigo だった。
 ベンディゴは、ここから翌年秋の3シーズンまで、シヤンベルタンと並ぶ存在として活躍する。
 北海道産、鹿毛、13ハンズ hands(132.1cm)。その名は、オーストラリアの地名にちなみ、かつて1862年の横浜新田の競馬に、同名の馬が出走していたから、その古きよき時代の記憶を呼び起こすためであったかも知れない。
 名義はサツマ、当時、ベンディゴのほかにも有力馬を所有していたが、本名は不明。

 ベンディゴは、1889(明治22)年に、ニッポン・レース・クラブのくじ馬として、4月27、28、29日の春季開催でデビューする。
 初日の新馬戦や、三日目の撫恤戦 Consolation でも着外など、3戦未勝利のままに終わっていた。
 だがその走りは、将来性を感じさせ、続く5月11、12日の不忍池の春季開催では、その一端をのぞかせる。
 初日の第1レース、今でいえば重賞にあたる宮内省賞典を鮮やかに勝ってみせたのである。
 騎手は、下総御料牧場と関係があり、馬主でもあった大竹考太郎だった。

 秋のシーズンは、そういった期待に応える活躍を見せる。
 10月29、30、31日の根岸の秋季開催では、名義は引き続きサツマ、騎手は若手ながら、巧みな手綱さばきを見せるコリンス Collins に代わって出走する。
 ベンディゴは、まず初日の第2レース、アールフィールド賞盃 R.Fields Cup 、賞金200ドル、5ハロン、5頭立に出ると、ゴール直前で追い込むという味のある勝ち方を見せる。タイムは、1分24秒だった。
 このカップを寄贈したのは、R.Fields.Robinson といった。
 ロビンソンは、1862年に来日し、生糸貿易などに従事していたが、明治期に入ると競馬クラブの役員を歴任し、1882(明治15)年には根岸競馬場に、パリミチュエル方式の馬券の導入を試みた。この時は失敗に終わったが、その経験が、1888(明治21)年秋の同方式の馬券発売に活かされる。
 200ドルという高額賞金は、ロビンソンの競馬にかける意気込みと、パリミチュエル方式の馬券発売によるクラブの隆盛を示していた。
 このアールフィールド賞盃は、前年から始められ、1891(明治24)年までの4年間続けられた。

 ベンディゴは、二日目の第5レース、北海道賞盃 Hokkaido Cup 、3/4 マイル、6頭立も、1分42秒 1/2 で勝ち、三日目の第4レース、日本馬優勝賞典 Japan Champion 、距離1周(約 1700m)に臨んだ。
 他馬は、シヤンベルタンとベンディゴへの挑戦をあきらめて回避し、2頭のマッチレースとなった。
 斤量は、ベンディゴの130ポンド(59kg)に対して、シヤンベルタンが150ポンド(68.2kg)。この斤量差の上に、本調子を欠いていたが、それでもシヤンベルタンが勝つ、というのが大方の予想であった。
 だが、勝ったのはベンディゴだった。タイム2分21秒 。秋になって3戦3勝、新たなチャンピオンの誕生だった。
 サツマは、この勝利を喜び、クラブにカップを寄贈、翌春ベンディゴの名を冠したレースが行われる。

 だがベンディゴは、続く共同競馬会社の秋季開催にも、また翌年の内国勧業博覧会附属臨時競馬会の春季開催にも、姿を現さなかった。サツマが、大山などの「偽籍」を嫌ったからで、どちらも不忍池競馬場での開催だった。(「偽籍」に関しては前々回、前回参照)

 明けて1890(明治23)年、4月30日、5月1、2日には、ニッポン・レース・クラブの春季開催が根岸競馬場で行われた。
 初日・第5レースの根岸景物、距離1周(約 1700m)、6頭立を、力通りに勝ち、二日目の第6レース、自らの名を冠したベンディゴ賞盃 Bendigo Cup 、距離1マイル 1/4 、5頭立に臨んできた。
 現在では考えられないことであるが、当時にあっても珍しいことで、しかも、自らの馬名がついたこのレースを、ベンディゴは勝ってしまう。私の知る限り、このようなケースは、この馬だけである。
 前年秋以来5連勝となり、復調なったシヤンベルタンが出走した三日目のチャンピオン戦こそ回避していたが、ベンディゴの強さは本物であった。
 この年の春秋のシーズンを通して、騎乗は、引き続きコリンスだった。

 そして迎えた秋のシーズン。10月30日、11月1、2日のニッポン・レース・クラブの秋季開催でも、連勝を続けた。
 まず初日の第5レース、横浜賞典、距離1周(約 1700m)、5頭立を勝ち、ついで二日目の第6レース、ベンディゴ賞盃、1マイル 1/4 、9頭立を連覇した。
 三日目の第4レース、日本馬優勝景物、距離1周、6頭立では、シヤンベルタンはベンディゴとの対戦を避け、同日の第7レース、北海道ハンデカップ景物に出走したから、ここはベンディゴの順当勝ちとなった。
 前年秋以来は8戦無敗で、評価はシヤンベルタンを上回ろうとしていた。
 
 このシーズンから、共同競馬会社も、雑種馬の「日本馬」大山の出走を拒絶した(前回参照)。このような「偽籍問題」の一応の決着もあって、ベンディゴは3シーズンぶりに不忍池に登場する。
 11月15、16日に開催されたが、二日目の第7レース、日本馬のチャンピオン戦、くじ馬ハンデカップ景物、距離 1600m 、4頭立に出て、2分15秒で勝った。
 シヤンベルタンは、この開催では3戦3勝であったが、根岸に続いて両雄の対決は実現しなかった。チャンピオン戦に出走しなかったことを見ると、シヤンベルタンの方が、ベンディゴを避けていたようである。

 翌1891(明治24)年の春秋のシーズンでは、ベンディゴは再び、ニッポン・レース・クラブのみに出走するが、前年までの強さがウソのようなレースぶりで、精彩を欠いた一年となる。
 4月の開催では、ようやく三日目の撫恤戦を勝ったのみにとどまり、11月の開催では、その撫恤戦にも勝てなかった。
 騎乗は、春が大竹考太郎、秋がコリンスであったから、ベンディゴが変調をきたしていたことに間違いなかった。
 なお、この年から名義がバレンタインとなっていたが、サツマがその仮定名称(註)を変えたのか、あるいは別人であったかは不明である。

 そして、ベンディゴは、この1891(明治24)年をもって、その姿を競馬場から消した。足掛け3年と、当時にあっては、短い競走馬生活だった。
 それでも、根岸での3シーズンにわたる8連勝の記録を残すとともに、サツマがその名を冠したレースを実現させたように、愛された存在でもあった。
 日本馬のレースそのものが終焉を迎えていくなかで、その最後の時代を飾った一頭であった。


(註)
 持主が、レースに出走させる際、名義として使用した名称。当時は一般的だった。人物を特定するのが、困難な場合が多い。