第5章 ホワイトストーンの遺稿 その1

(一)はじめに

 ホワイトストーンが亡くなったのは、一九九八年の一月のことでした。生まれたのが一九八七年の四月二日ですから、十一年にも満たない短い生涯だったことになります。

 彼のライヴァルで、二年早く引退したメジロライアンは、オークス馬のメジロドーベルやメジロブライトを、一年早く引退したメジロマックイーンは、エイダイクインを、それぞれ初年度から出していて、順調な種牡馬生活を送っていますので、彼にも大いに期待していたところでしたのに、とても残念でなりません。

 せめて残された産駒の中から、父の名前を高めるようなサラブレッドが出現することを祈るばかりです。同じシービークロスの産駒のタマモクロスが、素晴らしい種牡馬成績を残していますし、セイウンスカイが皐月賞を制したときに話題になったように、この世界では父のない仔はよく走るといわれていますので、その可能性は十分にあるものと思っています。

 芦毛倶楽部のなかでも、国際派として名高いホワイトストーンは、現役当時からジャパンカップに関するレポートを執筆していると聞いていましたので、芦毛倶楽部の雑誌『ザ・テトラーク』に掲載された際には、ぜひ翻訳したいと申し入れしたことがあります。
 ウインドミル事件以降は、人間界への情報流出に対する管理が厳しくなっており、どうかなと思っていたので、「生存中に発表しなければ」との条件付きながらも許可を得ることができたのは、幸運だったといえるでしょう。

 ただ、彼はまだ若かったので、紹介できるのは二十一世紀に入ってからだと思い、そうなると私のほうが先に寿命がつきることもあるので、念のため、行方不明となっている四白眼の少女にでも頼まなければ、と考えていた矢先の訃報でした。

 そんな経緯がありましたので、ホワイトストーンが亡くなったとき、書いていたものはどうなったのか心配になり、「生前からの約束があるので見せていただきたい」と申し入れますと、「草稿が残っているだけだ」との答えが返ってきました。
 どうやら未完成に終わったようで、では、そこまででも翻訳しようと思い、そのむね、再度申し入れましたところ、しばらくして送られてきました。
 サラブレッドの世界は、何よりも約束事が堅く守られる世界なのでしょう。

 ただ、草稿を調べたかぎりでは、成績表や血統表は数多くありましたが、まとまった文章の形をなしているものは、あまり多くはなく、どうしたものかと思案にくれてしまいました。
 そのまま打ち捨てるのは、いかにももったいなかったので、ホクトヘリオスに相談しましたところ、私が草稿を読んで、再構成して紹介すれば好いのではないか、といわれ、そのアドヴァイスに従うことにしました。
 ですので、いちおうホワイトストーンの遺稿のかたちをとってはいますが、文責は私にあると考えていただいて結構だと思います。

 最初に、ホワイトストーンの略歴を簡単に紹介しておきましょう。
 ホワイトストーンは、一九八七年四月二日に北海道で生まれました。父は、「純生芦毛」シービークロス、母はナイスダンサーの娘ワイングラス、母系にはそれほど目立った活躍馬もおりませんし、強いインブリードを持った馬もおりません。シアンモア、プリメロ、ヒカルメイジ、フジオンワード、ナイスダンサーと、代々交配されてきていまして、母系にはスタミナが沈殿していることはお分かりいただけるものと思います。

 デビューしたのは一九八九年六月の札幌で、五着に終わっていますが、期待は大きかったようで、五ヶ月振りに出てきた二戦目を勝ち上がると、果敢にも朝日杯三歳ステークスに挑戦しました。
 さすがに相手は強く、アイネスフウジンの五着に終わりましたが、未勝利勝ちだったことを考えると、まずまずの成績だったといえるのではないでしょうか。

 こうして四歳の春を迎えるわけですが、このときもトライアルで好走したこともあって、結局一勝馬の身ながらも、クラシックの表舞台を歩んでいきます。
 弥生賞はメジロライアンの三着、皐月賞はハクタイセイの八着、NHK杯はユートジョージの三着、ダービーはアイネスフウジンの三着と、それこそ秋には、大きなレースでの活躍が約束されたような成績でした。

 じっさいホワイトストーンにとっては、四歳の秋が競走馬としての最盛期となりました。
 秋緒戦のセントライト記念で二勝目をあげると、菊花賞ではメジロマックイーンの二着、ジャパンカップではベタールースンアップの四着、有馬記念はオグリキャップの三着と、内外の一線級を向こうにまわして、素晴らしい戦いぶりを見せたからです。
 とくにこの秋のG1三連戦は、着順こそ違いますが、いずれも勝った馬からコンマ二秒の差で、着差にすると二馬身に満たないことからも、その健闘ぶりはどんなに高く評価しても、しすぎるということはないでしょう。

 その後も、G1レースには八回挑戦しますが、五歳での宝塚記念の四着が最高で、そのことからも、いかに四歳の秋が頂点だったかが分かると思います。
 逆にいいますと、菊花賞、ジャパンカップ、有馬記念の好走が、その後の成長を妨げたともいえるかもしれません。先ほども書きましたように、母系にはスタミナがふんだんに注入されていまして、血統からすると、五歳の秋ぐらいに最高の時期がきてもおかしくはなかったのですから。
 読んでいただければ、理解していただけると思いますが、おそらく彼の遺稿の主題も、そのあたりにあるのではないでしょうか。

(この章続く)