ノートの6:競馬百話(3)

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(5)人工授精はなぜいけないか
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 わが国では、たしか昭和三十四年から人工授精は禁じられた。英米などの国では、人工授精によって生まれた馬は、登録しない、したがって競馬に出られないことになっているというので、将来国際競馬に出る場合に支障があると考えて、わが国でも人口授精によって生まれた馬は、登録しないときめたのである。

 だが、実際は、このことはすこし思いすごしであったのだ。
 日本の馬か、外国の国際レースに出走するのには、日本でちゃんと登録されていて、相当の競走成績を持っていればよいのである。
 このことは、日本のサラブレッドが、諸外国でサラブレッドとして扱われるかどうかということとは、もともと別な問題であったのだ。
 だから人工授精の問題は、わが国の馬が種馬として外国に輸出されるようになって考えればよかったともいえるのである。

 だが、ともかくわが国の軽種馬の生産は、人工授精をとりやめた。
 そして河野一郎氏が軽種馬協会の会長のときに、日本のような貧乏国が、高価な外国産のサラブレッド種牡馬をたくさん輸入するよりも、小数の優秀な種牡馬を効率よく、人工授精によって利用した方がよいといって、競馬会に対し、今後人工授精を認める用意があるか、という照会ををよこしたのは、それから程なくしてからである。

 わたしは当時競馬会にいて、その方の担当であったが、なにしろ時の政界の実力者であった河野一郎氏のことだから、下手な回答はできないということで、わたしはじめの競馬会の首脳部は、頭をなやました。
 結局、人工授精がいけないというのは、血統の公正さが維持できないだろうということから来ているのだから、このことが確認できるような、なんらかの方法が講じられるならば、人工授精を認める用意がある、といったような回答をしたように記憶している。

 ところで、サラブレット・レコード誌(一九七三年一月六日号)のポスト・タイムという欄にポーラ・アモルズという人が、河野さんと同じようなことをいって、人工授精をやるべきだといっている。
 この人は、最近死んだリボーやボールドルーラーの精液を冷凍しておけば、これらの馬が死んでからも、これらの貴重な血液が利用できるし、また人工授精によって、繁殖牝馬の輸送の費用や滞在費が節約できる、といっている。
 また血統の公正ということについては、乳牛ではなが年人工授精をやって、なにも問題がないことを考えてもらいたい、そしてサラブレッド生産者が、真にサラブレッドを改良しようと思えば、人工授精を利用せよといっている。


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(6)年度代表馬の百年の歴史
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 これはアメリカの話である。ある競馬雑誌に、A Century of Champions(チャンピオン属の百年)という表がのっている。

 明け三歳牡馬、明け三歳牝馬、明け四歳牡馬、明け四歳牝馬、ハンディキャップ馬(牝、牡)およびチャンピオン馬にわけて毎年の最優秀馬がアメリカではきめられるが、この表はこの百年の歴史を示したものである。

 チャンピオン馬ということは、わが国ではあまりいわないが、数年前(おそらくまだ十年にはなっていないであろう)から競馬週報社が、外国の例にならって「年度の代表馬」をえらんできている。その年度の代表馬にあたるのが、チャンピオン馬である。つまりその年の最優秀馬である。
 アメリカに、チャンピオン馬の百年の歴史があることは、つまりアメリカにそれだけ古い競馬の歴史があるということだ。

 この表によって、いくつかの事実を紹介してみよう。
 昨年(一九七二年)には、明け三歳馬のセクレタリアトがチャンピオン馬になった。このことは、この馬がいかにすぐれた馬であるかを示すと同時に、また古馬にあまり傑出した馬がいなかったことを示すものである。
 百年間に、このような馬は、セクレタリアトの外に四頭いる。
 すなわち、ドミノ(1893 年)、コマーンドゥ(1900 年)、コリン(1907 年)およびネーティグダンサー(1952 年)である。

 アメリカの代表的な名馬といわれているマンノウォーですら、一九一九年に三歳の代表馬となったが、この年のチャンピオン馬はサーバートンにゆずり、翌年にチャンピオン馬になっている。

 ドミノは、翌年に明け四歳のチャンピオン馬となったが、この年のチャンピオン馬は、ヘンリイオブナヴアールがなった。
 コマーンドゥおよびコリンは、翌年もチャンピオン馬となった。
 ネーティヴダンサーは四歳の代表馬となったが、この年のチャンピオン馬にはトムフールがなり、その翌年ネーティヴダンサーはまたチャンピオン馬となった。

 この外に二回チャンピオン馬になったのは、テンブレーク、ヒンドゥー、ミスウッドフォード、サルヴューター、ヘンリイオブナヴアール、ハーミス、フィッツハーバード、サラジーン、エキポイーズ、シャリドン、ウァーラウェイだが、三回以上なったのはケルソただ一頭である。
 ケルソは、一九六〇年から一九六四年まで、五年連続チャンピオン馬となり、チャンピオン馬の歴史に輝いている。