ノートの6:競馬雑録(2)
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---------------------------------------- 田口企画課長の用意周到さ ---------------------------------------- 昭和48年から、中央競馬では、父内国産馬に対し奨励賞が出ることになったので、出馬表などの父馬のところに、内国産馬は★印をつけるようになったが、これは父馬につけないで、競走馬そのものにつけた方がよいということを提案したことを、(1)に書いたのだが、競馬会の田口企画課長は、もっともだということで、さっそく1月27日の競馬から、父内国産馬の馬には、マルチチという記号をつけるようになった。 一度きめて、まだそう日もたっていないのだから、たとえ良いことでもなかなかなおさないのがふつうであるが、なんのこだわりもなく改正するということは、なかなかできないことである。わたしの提案がとおったからいうのではなくて、なんともいえないすがすがしい気持を味わしてもらった。 ついでのことながら、父が内国産の馬をマルチチとしたのは、将来母が内国産のものにも記号をつける必要が、おこるかもしれないことを予想して、この場はマルハハを考えて、マルチチとしたのだということで、まことに周意周到であるのにも敬意を表したい。 ---------------------------------------- キクノツバメの重賞制覇 ---------------------------------------- 第14中山競馬の1日目(昭和48年2月25日)に行なわれた第八回クイーンカップは、出走馬13頭で、出走馬中でただ1頭のマルチチであるキクノツバメ(父バリモスニセイ)が、みごと1着になって、1200万円の賞金を獲得した。まったく胸のすくような思いである。 最近内国産の種牡馬の産駒が、いくつかの重賞競走に勝ち、内国産種牡馬が、あらためて見なおされていることは、誠に結構なことである。 中央競馬のサラブレッド系の馬のうちで、父が内国産である馬は、現在は約1割7分であるから、父内国産の馬が重賞レースに勝つ絶対数は、すくなくて当然である。この全休の頭数に対する比率でいけば、92ある重賞競走(サラブレッド系の)のうち16レースに勝てば、重賞競走については、外国産種牡馬と内国産種牡馬の産駒の勝率は、同じだということになる。 だから、ただ父内国産の馬が、重賞レースにあまり勝たないからといって、内国産種牡馬の価値を論じてはならないので、父内国産の馬の数が、全休の2割にもなってないことを忘れてはこまるのである。 --------------------------------------- 川本武司氏を大切にしよう --------------------------------------- わたしは、長いこと日本中央競馬会に勤めていて、自分の経験から、こんなことをいつも考えていた。 わたしが優駿に書いた記事などについて、いろいろなことを問い合わせてくるのは、いつも外部の人なのである。競馬会の人間だから、サラブレッドの血統だとか、生産だとかに関心を持っている人もいるのだろうと思うのだが、手近にいるわたしに、なにか質問でもしてくるような人は、競馬会には一人もいなかった。 ところが、外部の人では、わたしの訳した本の詳細な正誤表を作って、おくってくれたり、あるいは長文の手紙で疑問に思うところを問いただしたりしてくる人がいるのである。 だから、わたしは、競馬会にいたときに、いつ若い人たちに、もっと勉強をするようにいってきたものである。 馬の写真のことなども、最近はアマチュアで馬専門にやっている人が、なん人かいるようだが、競馬会の職員にも、そんな人がいてもよいのに、あいかわらず競馬会の人間は不勉強だな、などと思っていたところ、とんでもない認識不足であることがわかった。 というのは、「競馬ニホン」の3月3日4日号(昭和48年)の巻頭言に、「馬を写して馬に魅せらる」という題で、競馬会の広報室の川本武司氏のことが出ていて、この人が馬の写真で、カメラ雑誌「日本カメラ」主催の1970年の年度賞第1位になったを初めて知ったからである。 川本さんの言葉を、次に引用さしてもらうと 「馬をテーマにして“日本カメラのフォトコンテスト”に出品を続けていたのですが、題材が馬ということで、競争相手がすくなかったようです。これが幸いしてそのような賞がもらえたと思います。さあ・・出品は月平均して20点ぐらいでしたですかね。テーマは馬と人物、この人物も競馬場でキャッチできることからギャンブラーとしたものです。京都の“集団ひのき”にはいっているのですが、このグループには、競馬場へ雑誌社のカメラマンとして来られた方に紹介し てもらったのです。“日本カメラ”のフォトコンテストへの出品も“集団ひのき”を経ているわけです。その賞をもらった翌年(1971年)にニッサンギャラリーで個展を開くこともできたのですが、競馬会の理解と森乃福郎さんのご尽力によったものです。そして昨年も東京・六本木のペンタックスギャラリーで個展が開けました。競馬会本部の渋谷さんの個展と共催で賑やかでした。」 競馬会も、こういう人を温い眼でみてやり、馬の写真家として大成するようにしてはしいものである。 --------------------------------------- アラブの血統詐称 --------------------------------------- 今年(昭和48年)の5月23日から6月4日まで、トルコのイスタンブールで、第11回アジア競馬会議が開かれる。 競馬会で出している競馬資料(72年2号)によると、トルコの競走馬の数は、約900頭であるという。 トルコでも、以前にはアングロアラブのレースが行なわれていたのだそうだが、サラブレッドをアングロアラブといつわって競走に出し、賞金をかせぐものがいたので、やめてしまったということだ。 競馬資料には、以上のように簡単に書いてあるので、くわしいことは分らないが、おそらくわが国のアラブ生産者の一部不徳な者のやっているような不正種付によって、血統をごまかしているのであろう。どこの国にも、自分の利益のためには、不正なことを平気でやる破廉恥な人間はいるものだ。 だが、これを読んだ日本の不徳生産者が、外国でもやっているのか、それならば日本でもなどと思わないでもらいたい。そんなことをしていたら、日本でもやがては、トルコのようにアングロアラブの競走が、なくなってしまうようなことにならないともかぎらないのである。 ---------------------------------------- バリモスニセイの替わり馬 ---------------------------------------- 昭和48年2月25日、中山競馬で行なわれた第8回クイーンカップで、バリモスニセイの産駒キクノツバメが優勝し、内国産種牡馬のバリモスニセイが、注目されることになったわけだが、1頭走る馬が出ると、その種牡馬にバッと人気がかたよっていくのは、それだけ生産者が、真剣に生産にとりくんでいるから、敏感になっているということであるが、また別の見方からすると、生産者にあまり定見がないともいえるのではあるまいか。 さて、このバリモスニセイのことについて、札幌競馬場長の西村さんから、次のような話をきいた。 バリモスニセイは、中京の諏訪調教師のところにいた馬だが、この馬が産地から諏訪厩舎についたときに、同じ貨車にもう1頭、バリモスニセイと同じ鹿毛の馬がいて、どうしてまちがったのか、諏訪調教師は、この別のチップトップ系の馬をバリモスニセイと思いこんでしまった。 なにしろバリモスの持込馬というので、まちがえられたにせのバリモスニセイは、すっかり大事にされ、競馬場での馬体検査のときには、本物のバリモスニセイは、手入れも十分でなく、もさっとしたかっこうで現われ、ニセ物はピカピ力みがかれて出てきたのだそうである。 ところが、血統証明書に記載されている特徴と実馬とを照合してみたところ、この両馬がいれちがっていたことが分ったというのである。不景気にあつかわれていた馬が、バリモスニセイであったわけだ。 このときから、待遇ががらりとかわって、きっと両馬とも、わけが分らずにびっくりしたことであろう。 この例などは、まちがったままでレースに出たわけではないから、まだよい方で、別なところで、わたしが紹介したことがあるが、オーストラリアで2年間も馬がまちがったままで出走していたことがあった。 これは、朝日新聞(昭和47年12月18日)にのった記事だが、この記事だけでは、どうして2年間も分らなかったのかは、はっきりしないが、悪意でとりかえたのではないことは、はっきりしたということだ。 |