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長い間、菜食主義で木と藁で作った家屋に住み慣らしてきたためだろうか。わがヤマト民族は、俗に島国根性の持ち主だといわれる。日本史に登場する悪党なども、スケールの点で紅毛人に到底敵わないようである。実際海の向うには、とんでもない詐欺師や怪盗が、ときおり出現するが、最近、上梓された『大怪盗』(ベン・マッキンタイヤー著・北澤和彦訳/朝日新聞社刊)に描かれた主人公もまた、「犯罪界のナポレオンと呼ばれた男」という副題通りの大悪党といえるだろう。 本名がアダム・ワース。1844年ごろにユダヤ系ドイツ人を両親として生まれ、5歳でアメリカ合衆国へ移住したこの未来の大怪盗は、14歳で家を出奔、南北戦争で北軍に入隊するも、ある戦闘で死亡リストに載ったのを幸い、逐電。別人になりおおせる。これがワースの偽名人生の第一歩だった。 戦後、ニューヨークのギャング集団に身を投じた彼は、金庫破りの天才 " ピアノ " チャーリィ・プラードと組んで、次々に銀行強盗を企てる。やがて盗品を売り捌き、巨万の富を得たワースは、ヘンリー・ジェイムズ・レイモンド郷士となりすまし、ロンドンに豪邸を構える。25人の従業員を必要とする110フィートのヨットを所有し、多数の競走馬のオーナーとなったワースは、まさにヴィクトリア朝期のブルジョアそのものの暮らしを送る。 が、その一方で、南アフリカでダイヤモンド強盗、リエージュでは列車強盗といった按配に、次から次へと世界を股にかけて犯罪を重ね、英のスコットランド・ヤードと米のピンカートン社という、大西洋の両側にある最高の捜査組織から、もっとも好ましからざる人物とされる " 栄誉 " に浴したのだった。 その仕事ぶりは、ジャーナリズムで煽情的に刻々と報じられ、かのコナン・ドイルをも刮目させたという。そしてホームズ最大の仇敵モリアーティ教授とは、このワースこそがモデルだと、著者のマッキンタイヤーは指摘している。 ほぼ半世紀におよぶ犯罪人生の中で、レイモンド郷士こと怪盗ワースが稼いだ額は、およそ3百万ドル(ピンカートン社の試算)。 が、中でも、もっともスキャンダラスな犯罪行為は、1876年、18世紀の肖像画家・ゲインズボロの名画『デヴォンシャー公爵夫人』(1787年ごろの作品)を、マジックのように盗んでみせたことだった。 なにしろ通称ジョージアナ(初代スペンサー伯爵の長女だから、あのダイアナ妃の縁戚になる)と呼ばれ、前世紀最高の社交界の花形を模した中でも最高の作と伝えられる肖像画を、長い行方不明期間を経て、イギリスの首都で意気揚々、再び公衆の前に姿を現そうという矢先、公開されたアグニュー画廊から、拉致し去ったのだ。王侯貴族から一般大衆にいたるまで、上を下への大騒ぎとなったのも無理からぬ話である。 ところで、ジョージアナが輿入れしたデヴォンシャー公爵家は、競馬史の上で、大変な名門とされている。それは2代デヴォンシャー公爵が、名馬フライングチルダーズ(1715〜1741)のオーナーだったことに拠る。父がサラブレッドの三大父祖のダーレーアラビアンで、母はベティリーズ。5戦5勝の記録から、エクリプスに先立つ一世紀間の最強馬と広く認められてきたからである。 このフライングチルダーズの血は、直仔ブレーズがヘロドの母の父となることで、現在も伝えられているが、サイアーラインはアメリカン・トロッターの血統に残っているだけで、サラブレッドにおいては断絶している。 代わって、フライングチルダーズの全弟バートレッツチルダーズから曾孫にエクリプスが出現、今日のサラブレッドの礎を築いたことは周知の通り。 血統評論家の山野浩一氏は、「やはりフライングチルダーズは競走馬の開祖と呼ばれるべき存在だろう」(『伝説の名馬W』)と評しているが、全く同感である。 サラブレッド血脈には貢献できなかったが、このフライングチルダーズのおかげで、現在も英国の競馬愛好者のデヴォンシャー公爵家への崇敬の念は大変なものらしい。 昨年秋のアスコット開催で、名物重賞のロイヤルロッジSに、デヴォンシャー公の持ち馬のティーポットロウが優勝した折りなど、デヴォンシャー家久々のステークス勝利とあって、大拍手が観客から沸き起こったと、これはその場に居合わせた畏友の舘和彦氏より聞いた話である。 これに比べると、わがナカノ・コールのなんと底の浅いことか。歴史の厚みの彼我の差を感じざるを得ない。 さて、話を怪盗ワースに戻すと、このワース、常に自宅にいるときは、ベッドの下に、遠出するときは、ケースに入れて帯同させているほど、この盗んだ『デヴォンシャー公爵夫人』には、ぞっこん惚れ込んでいたらしい。 そして亡くなる直前に、ワースは、かつての仇敵ウイリアム・ピンカートンに最愛の盗品の返還を申し出る。 かくして1901年、ジョージアナの肖像画は、アグニュー画廊に戻り、さらに、盗まれる直前、買い入れを申し出ていた億万長者モルガンの手にわたる。 この名画には、さらに数奇な運命が待っていた。 モルガンの死後(1911死去)も、代々、遺族の間で門外不出にされてきた〈公爵夫人〉は、1944年、サザビーズのオークションにかけられ、ミスター・スミスなる男の手により、26万ポンド余で落札される。 スミスとは誰の代理人か。やがて一週間後、驚くべき事実が判明する。〈公爵夫人〉は、なんとデヴォンシャー公のチャッツワース邸に到着したのである。 競馬ファンなら、ほかならぬ『デヴォンシャー公爵夫人』の画家にも、注目せざるを得ないだろう。いうまでもなく、ゲインズボロとは、1918年、第一次世界大戦下、ニューマーケットで代理開催された英三冠ホースの名前でもあるからだ。 一説によると、この名馬のオーナーのレディ・ダグラスは、鉄道地図から拾い出した駅名にちなんで命名したという。 が、1910年代といえば、まだまだ〈公爵夫人〉が、4半世紀の眠りから公衆の面前に姿を現したスキャンダルの記憶が生々しく残っていたといえまいか。 ダグラスの意図を離れて、その名から、一般大衆が、ジョージアナと怪盗の数奇な運命に思いを致して不思議はない。 初出:『競馬通信大全』15号 1998 年6月 |