ノートの6:競馬百話(11)

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(21)日本ダービーとケンタッキー・ダービー
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 日本のダービーは、今年(1973年)が40回、ケンタッキー・ダービーは99回である。

 日本を代表するダービーは、いうまでもなく東京競馬場で行なわれる東京優駿競走、通称日本ダービーである。
 アメリカでは、ダービーと名のつくレースは、競馬を行なっている各州にたいてい一つはあるが、アメリカを代表するのは、このケンタッキー・ダービーである。アメリカン・ダービーというのもあるが、これはアメリカを代表するものではない。
 日本のダービーのことは、たいてい競馬ファンがよく知っているので、主にケンタッキー・ダービーのことを紹介しながら、日米競馬の相異点などを考えてみたい。

 アメリカの競馬雑誌などは、口をそろえて今年のダービーは、ケンタッキー・ダービーの歴史中で、もっとも内容の充実したレースであったといっている。
 その主役を演じたのは、もちろんセレクタリアトである.セレクタリアトは、1964年にノーザンダンサーのつくった2分0秒という記録を破り、一哩半を1分59秒2/5のニュートラック・レコードをつくった。
 ニュー・トラック・レコードというのは、その馬場でのレコードをいうので、2000米のレコードは、1分58抄というのがサンタ・アニタ・パークで作られている。

 今年のケンタッキー・ダービーは、セクレタリアトの記録の外に次のような六つの記録が作られた。
 入場者数13万4476名、ダービーの売上げ328万4962ドル、この日の売上げ762万7695ドル、ダービーの全賞金19万8800ドル、一着賞金15万5050ドル。
 このケンタッキー・ダービーの売上げの328万4962ドルという額は、1ドル260円として計算すると、約8億5千万円になる。ところが、今年の日本のダービーの売上げは、約96億円で、ケンタッキー・ダービーの売上げの11倍以上である。

 ケンタッキー・ダービーの出走馬は13頭、日本ダービーの出走馬は27頭。
 なるはど日本ダービーは、売上げや出走馬の数は多いが、両国ダービーの勝馬の国際的の評価は、雲泥の差があるといってもよいであろう。売上げは世界一を誇っても、なんとなくむなしく、また淋しい気がする。

 ケンタッキー・ダービーの特色は、日本でいえば、いわば浦河とか静内にあたる馬産地のケンタッキー州の小さなルイビルという町にあるチャーチル・ダウンズという競馬場で行なわれるということにある。

                      (昭和48年7月17日)


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(22)アメリカ競馬雑感
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 7月(昭和48年)に、5、6年ぶりにアメリカに行く機会があった。ニューヨークに一週間ほどいただけだが、その間に接したアメリカ競馬の実態は、やはり日本よりも数段すすんでいるような感じをうけた。

 日本の競馬は、馬券の売上げだけは、まさに世界一ではあるが、走っている馬は、残念ながら世界で一流というわけにはいかない。日本産のサラブレッドは、その価格と素質からいって、外国に販路を求めることは、非常にむずかしい。だから、日本には外国からの馬の輸入を取扱う商社は、たくさんあるが、日本の馬を外国に売りこもうという商社はないのである。

 ところが、アメリカでは(ヨーロッパでもそうだが)、サラブレッドを国内ばかりでなく、ひろく外国に売るための、馬専門の商社がたくさんある。
 こん度、アメリカに行ったとき、交渉のあったマーティー・ブラザーズという会社を例にとって説明してみよう。アメリカのサラブレッド・インダストリイというものの大きさが、これから想像できるのである。

 この会社は、兄弟三人でやっている小規模なものだが、なかなか機動力に富んだ運営を行なっている。
 わたしが行ったときは、ちょうどベルモントの競馬がおわり、アケダクトで競馬が行なわれていたのだが、このときにはマーティー兄弟は、ニューヨークのケネディ空港のそばのヒルトン・ホテルの内にある三部屋の事務所にきている。三部屋といっても、事務所に使っているのは中央の広い部屋で、左右の部屋は、それぞれ女秘書二名、マーティー兄弟たちの部屋になっている。

 事務所には、競馬や生産に関するあらゆる資料が整備されていて、二人の女秘書が、電話の応対や血統証のコピーなどを、てきぱきとつくっていく。秘書の一人はフランス人だから、フランスの馬については、すぐにフランスに連絡することができる。
 また別にフロリダの方にも事務所を持っていて、冬季に競馬がそちらに移動したときは、そっちの事務所に出かけていくという。
 事務所には、テレタイプがあり、各所から連絡をうけている。

 この外に大きな自動車をもち、これは移動事務所というペきもので、書棚には各種の資料が整備されているし、もちろん冷暖房は完備されていて、レントゲン写真をうつしてみる装置までついている。
 こん度、この会社は東京にも帝国ホテル内に事務所を持つということだが、このような商社一つを見てと、アメリカの競馬と生産のスケールの大きさが十分に想像できたのである。

                 (昭和48年7月26日)