ノートの6・競馬雑録(9)
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------------------------------ セクレタリアトの馬主あ語る ------------------------------ わが国の競馬には、あまり重賞競走が、たくさんありすぎる、たとえばNHK盃などはよけいなもので、これがあるためにダービーを目標にしている馬も、調教過程がくるってくるなどということが、よくいわれている。 アメリカでも、これに似ているようなことがいわれているとみえて、例のセクレタリアトの馬主ジョン・ツウィーディ夫人は、ケンタッキー・ダービーの前に、レーシング・フォームのコラムニストのジョー・ヒルシュのインターヴューにおいて、次のように語っている。 「昨年われわれが、リグァリッジの経験から学んだことがあるとすれば、それは自制ということです。賞金の多いステークスは、たくさんあります。そして誰でも、自分の馬の調子が良ければ、それらのレースの全部に走らせたいという大きな誘惑にかられます。だが、正しいやり方は、スケジュールをつくり、それをまもっていくことです。」 ------------------------------ B・B・A ------------------------------ B・B・A、つまり The British Bloodstock Agency Ltd. は、英国に馬を買いにいった人たちは、たいてい世話になっていると思う。 直接世話にならなくても、ここで出している The Bloodstock Breeders Review だとか、ボビンスキイのファミリイ・テーブルの世話にならないサラブレッド生産者は 、すくないであろう。 このB・B・Aが、(1973年)3月19日に、ニューマーケットのテラース・ハウスに支社を開いた。 輸送、保険、血統および調査部門はここに移った。ここの長は、C・R・フィリップスン少佐だとのことだが、メージャーといっても、かれが現役の軍人というわけではない。英国では退役の軍人も、現役のときの位をいつまでも名前につけていう習慣にすぎない。 英国の馬齢重量表の基礎をつくった名ハンディキャッパーであったアドミラル・ラウスのアドミラルもそうである。わたしも、競馬社会にはいりたては、アドミラルというのは固有名詞かと思っていた。このフィリップスンさんに、わたしも世話になったが、ひどいどもりなので、わからない英語がますます分りにくくなって、こまったことがある。 ニューマーケットにあるバイカラ(Byculla )という、いわばB・B・Aのクラブ・ハウスは、そのまま客の接待に使われるという。またB・B・Aの営業部その他の部門は、ロンドンの以前のところに、そのまま残される。 ----------------------------------- 白井透氏の「日本の種牡馬録」 ----------------------------------- サラブレッド血統センターから、白井透氏の「日本の種牡馬録」の1973年版が出た。1966年、1969年と今まで2冊出ているので、これが3冊目である。 最初の本は白井新平氏の名になっており、2冊目は白井新平氏と白井透氏の両方の名が出ているが、この3冊目から名実ともに白井透氏ひとりのものとなった。 8・5×26センチ、543頁で、79頁の補充版がついている。誠に堂々とした本だ。今度からほとんどの写真がカラーになった。これが1冊あれば、日本のサラブレッドの種牡馬のことは、細大もらさず分る便利な本だ。定価の7800円というのもけっして高くない。 サラブレッドの生産者はもとより、およそ競馬に関心を持つものは、かならず1冊そなえておくべき本だ。 この本をひらいて見ていると、美しいカラー写真や血統表などにひかれて、ついつい時間のたつのを忘れるはどだ。 ----------------------------------- アイドルとなったハイセイコー ----------------------------------- ひところ前までは、子どもに人気があるものといえば「巨人、大鵬、玉子焼」で、ちか頃は「江川、輪島、ハイセイコー」といわれていたが、ハイセイコーがダービーに負けたせいか、「田淵、尾崎、輪島」のTOW時代というのが、もっともナウなのだそうだ。 だが、ハイセイコーがダービーに負けても、東京、府中の鈴木勝調教師と増沢騎手の自宅に、電話か手紙のこない日はないという。 「ハイセイコーちゃん、げんきですか、ダービーいっしょうけんめいにおうえんしたのにぎんねんでした。またがんばってね」(横須曳・六歳の女の子) 「写真をとらせてください。買いにくる人が多いのです」(浅草のブロマイド屋) 朝日・昭和48年6月21日付
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